古いものを捨てて、新しく、先生と共にする

新しくすることについての御言葉でした。最近はこの「古いものを葬りなさい」と「実践」の御言葉が非常に多いですね。

それだけ時なのだと思います。今の時が過ぎれば、また別の時が訪れます。どんな時になるかはわかりませんが、前もって神様が準備されていることを考えると、その予兆はすでに現れているのかも?

御言葉で皮袋の聖句が出ていました。

数日前にこのブログで「あの比喩わかりづらい」とか書いたものだから気まずかったです笑

そこは改めるとして、とにかく核を押さえて、古いものを捨てることを意識しないといけませんね。

具体的に何を捨てるかは個人個人が祈りながら見つける必要があります。

「古い曲を捨てること」は具体的に示されていますが、そうした周りで起きていることを受け入れるだけで自分が古くなっていることに気づかない人が多いのだと仰いました。

人って古くなると、他人のことを指摘しながら具体的な改善策を示さなかったり、自分では何もしなくなってしまうことがあります。

会社では「重箱の隅をつつく上司」とか呼ばれていることがあります。聖書にも「また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。」という聖句がありますね。

つまり、いつの時代も同じ。それだけ人が陥りやすい問題ということです。

年はどうしてもとっていくものだけど、古い時代に固執しないで常に新しくいたいですね。

箴言では自分を作ることについて話してくださいました。

考えが浮かんできたら、そのままにしないで、整理して束ねなさいって仰いました。

そうして先生は新しい歌を作られています。

箴言では続いて、歌詞を作ったら、その雰囲気に合うように曲も歌わなければならないと仰いました。

歌の使命をやっているので、これは自信を持って言います。

最近の摂理の曲、バリエーションが多すぎぃ!

1人で切々と歌うような曲もあるし、ライブで大勢で手拍子を合わせながら盛り上げる曲もあるし、ラップ部分が激しくてどんどん前に出て行かないと曲に負けてしまうのもあるし、恋人を隣に置いて優しく歌ったらいい雰囲気になるのかもしれないバラードもあります。けっ

曲ごとに歌い方もガラッと変えないとついていけません。

箴言では「1つの歌で『歌謡曲、演歌、賛美歌、歌曲、パンソリ』などに作ることができる」とおっしゃっていたから、編曲も様々にしなさいってことでしょうね。

パンソリ、知らなかったけど「摂理人は絶対聞いたことあるやつだろうな」と思って調べたらやっぱり聞いたことあった。月明洞の芸術祭で見るやつや。

かっこいいですね。「よっ!」とか「やあ!」という「あいの手」は日本の伝統芸能にもあるし、スペインのフラメンコでも聞いたことある。伝統芸能に共通している部分なのでしょうか。

1つのものから様々に作る技術が必要です。

御言葉は与えられているけど、それをどう料理するかは各個人の腕次第です。

家庭料理を作るのか、高級料理を作るのか、大衆料理を作るのか、エスニックなのかフレンチなのかイタリアンなのか和食なのか。

どれが優っているかではなく、個性通りにつくりたいですね。

先日、先生が「埠頭の孤独」を作る様子を見ました。

あの鼻歌から、あの歌ができたのが衝撃でした。

「埠頭の孤独」って悲しいメロディだし、悲しい歌詞ですが、先生、なんで楽しそうに歌ってんだ?

それが一番謎でした。

そして、ふんふん歌ってるこのメロディからあの大きな曲になったの?というのも衝撃でした。

先生「カモメ 悲しく鳴き クークー(カモメの鳴き真似) 汽笛も鳴いている〜」

元の歌詞ではカモメの鳴き真似入ってるじゃねーか!

って思いましたよ。しかも二回歌って二回ともカモメの鳴き真似入ってましたよ。

なのに、私たちが歌ってる歌詞には「クークー」がありません。

作曲した人が(いや、みんなで歌うのにカモメの鳴き真似はちょっと…)って思ったんでしょ!

これではいかん!先生のおっしゃった通り歌詞に「クークー」入れないと!

というのは原理的な考え方ですね。

先生は「弟子と一緒にやること」が好きなので、先生が歌って、私たちがそれを元に様々に作ることが必要なんでしょうね。

今日はたくさん書きました。なぜこんなに書いたかというと、本当はやらなきゃいけないことがあるんだけど、そこから逃げているからさ。

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