肉体の十字架と精神的な十字架

今朝は十字架についての御言葉でした。

十字架というと、この体が磔にあって死ぬことを考えますが、それよりもっと大きいのが精神的な苦痛だと仰いました。

「精神的に苦痛を感じたことがある人はわかるでしょう?」と言ってましたね。先生は以前「肉体の十字架は一度受けたら終わりだけど、精神的な苦痛は何度も味わうからもっとつらい」とおっしゃったことがあります。

この気持ち、少しでもわかる方はいるのではないでしょうか。「死んだ方がましではないか」そう考えたことがある方は多いはず。

私は、毎日会社に行かなくてはいけないから毎日つらいですね。…その程度じゃ気持ちがわかるとはいえないかな。一応、少し前まではよく「こんななら生まれない方が良かった」ということを思っていました。

肉体の十字架は一度受けたら終わりです。イエス様は、十字架にかかることでその遺産を後世に残しました。

昨日、聖書を読んだのですが、読んだのがこの箇所です。

「いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。 遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。 だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。」‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭9:16-18‬

こうして、イエス様はその言葉を、十字架にかかることで有効にしました。本来の御心ではなかったけれど。

この条件があったので、新約歴史は2000年続きました。遺言の力ってものすごく強いですからね。

しかし、今の時代はそれでは歴史が起こらないのだと、今日の御言葉で仰いました。

なぜなら、子どもは親が亡くなっても遺産で大きく成長することができるが、新婦は新郎なしでは意味がないからです。

だから、先生は死ぬ目にあいながら、一度死んで全てを終わらせるわけにはいきませんでした。続けて精神的な苦痛を受けながら、条件を立ててきました。

そうして、今また会おうとしているわけですね。

そこまでしているから、私たちは前もって準備しなければならない。そういう話なのだと思いますよ。

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