以前は先生だけが頑張ってきたけど、今はあなたたちも頑張らなければならないと今朝の御言葉ではおっしゃいました。
これは、子どもの頃は親が全部面倒を見てくれるが、大人になったら自分でやらなければならないのと同じです。
子どものころは失敗しても親が頭を下げてくれる反面、賞をもらっても親が一時的に預かってしまいます。それが大人になったら、自分が行ったぶんは自分が受け、失敗したら自分で起き上がらなければなりません。
御言葉では、自分の体が行った通りに自分の霊が受けるのだと言いました。そして時がいたるとその霊の姿があらわになるのだと言います。
このことを、先生を通して感じることがあります。
先生の体は、閉じ込められています。限界がある中で働いています。
なのに、なぜか月明洞が開発されていきます。普通の監獄暮らしをしている人にはありえないことです。世界中探しても先生だけでしょう。
いずれ、先生は今までよりさらに理想的になった月明洞で御言葉を伝えることになります。
今、限界がある中で働いているその結果が将来に現れる。これは、体で行ったことが霊に現れることの象徴のように思います。
私たちも、努力の結果が思わぬ形で用意されていることに気がつくことがあります。
頑張っても頑張っても何もないように思う時もありますが、それは監獄で何かもらったところで嬉しさが半減するから今は与えられないだけで、そこを抜け出してからたくさん得られるように別のところに苦労の代価が積まれているんだということです。
言葉で話すのは難しいけどそういうことを実感しました。