ヨシヤ王の失敗から連鎖して起こる歴史的出来事

ヨシヤの話でした。

以前もヨシヤについてブログを書きましたが、それはヨシヤ個人についてでした。

ヨシヤ王の立場から考える「無知の中の相克世界」

今回は、ヨシヤが属していた南ユダ(ユダ国)について調べてみて衝撃だったので書き残しておこうと思います。

ユダ国は、その昔はダビデ王が建てたイスラエル王国でした。

それが後世になって、北イスラエルと南ユダに分かれました。

ヨシヤ王は南ユダの王です。この時(紀元前600年あたり)にはすでに北イスラエルは滅んでいるようです。

南ユダの周りにはエジプトや新バビロニアなど大国があって、南ユダの大きな脅威になっていました。

そこへエジプトの軍隊が南ユダの領地を通り過ぎようとし、南ユダは“戦ってはいけないのに”戦ってしまって負けてしまいました。

この出来事から得られる教訓は、御言葉で聞ける通りですので、摂理の御言葉を聞いてない人は聞いてみてください。

僕は、「この後の歴史ってどうなったんだろう。」と気になって調べました。

調べたところ、聖書にあるエジプトと南ユダの戦いは、歴史的には「メギドの戦い」というそうです。(紀元前609年)

メギドの戦いの4年後(紀元前605年)、エジプトは4年前に南ユダに邪魔されてできなかった目的を果たすため、北上して新バビロニア(バビロン帝国)と戦います。

これは歴史的には「カルケミシュの戦い」というそうです。

その結果、エジプトは負けました。

この後、エジプトはアジアへの勢力拡大政策が頓挫してしまうそうです。

え、ヨシヤがメギドの戦いでエジプトと戦わなかったら、エジプトは余計な消耗をせずアジアに勢力を伸ばしてた可能性もあったってこと?そしたら現代のエジプトの国境ってもっと違ったんじゃね?ヨシヤ、他国の歴史も変えちゃってね?

そう思いました。みんなもそう思うでしょう。

話を戻して、エジプトに勝った新バビロニアは栄華を極めます。

栄えた新バビロニアが何をしたかというと、紀元前597年から起こるバビロン捕囚です。

聖書にある通り、南ユダの王ゼデキヤは目をくりぬかれてバビロニアに連れて行かれてしまいました。

そういう流れなんですね。バビロン捕囚に至るまでの流れ。ヨシヤ王の失敗がそこに繋がるのか。もしカルケミシュの戦いでエジプトが勝っていたら…。

いや聖書にはその前からバビロン捕囚をにおわせる記述はあります。ただきっかけはあったにせよ、直接的な原因を作ってしまったのは、ヨシヤ王のその一回の判断誤り(エジプトと戦ってしまった)とも見えます。

このゼデキヤ王を最後に、南ユダは滅びてしまいました。

だから、イエス様が生まれた時も、ヘロデとかいう変な王が国を治めていたんですね。

ヨシヤの失敗が無かったら、イエス様が生まれた時の治世者も変わっていたかもしれません。

そしたらイエス様の運命はどうなってた?ヘロデに直接的に殺されたバプテスマのヨハネの運命は?

たられば(こうだったら、ああしていれば)という話は良くないですが、これは考えてしまいます。

そして、これはwiki情報ですが「ユダ王国が滅ぶと、わずかな例外的時期を除いて20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかった。」だそうです。

いやまじかよ、って思いますね。

国がなくなり、再び国を持つまで2000年間もかかってしまった。

「主にあっては千年が一日のようだ」といいますが、人にとってはちょっと長すぎるにもほどがある期間です。

ヨシヤ王の失敗の影響が大き過ぎます。

歴史ってのはほんとすごい。

今週、先生は「神様がやりなさいとおっしゃったら、やりなさい」と何度も話していましたが、ちょっとその重みが伝わってきますね。

先生はとても平易な表現で話すので、僕らもうっかりするとその深みを悟れずさらっと聞いてしまいますが、分かればわかるほど切実な内容です。

ユダヤ人にカナン人の血が入っているというニュース

土曜日、ニュースを読んでいたら面白い記事を見つけました。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/060100328/?ST=m_news

「カナンの地」で有名なカナン人の血が今も生きている。

それだけでも面白かったのですが、その血がユダヤ人にも流れているという点がもっと興味深かったです。

僕の認識では、現ユダヤ人は旧約聖書のイスラエル民族の血を継いでいます。

旧約聖書では、神はイスラエル民族とカナン人を明確に区別しており、交わりを禁止しており、最後にはイスラエル人がカナン人を倒しているので、カナン人の血がユダヤ人に入ってるわけないはずなのですが、この記事の通りだとすると、カナン人とイスラエル民族で結婚した人がいるということになるのか。

あらら。そういうことする人もいたのか…人間ってほんとあれだな…

と思っていたら、主日の聖句の本文が発表されました。

ヨハネによる福音書8:29、イエス様とユダヤ人が問答をするシーンです。

先生は以前、「本文の前後も読んだらもっと御言葉がわかる」と言っていたので続けて読んだら、こう書いてありました。

「彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。 ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである」。彼らは言った、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭8:39-41‬ ‭JA1955‬‬
https://www.bible.com/81/jhn.8.39-41.ja1955

ユダヤ人は「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。」って言ってるけど、どうなんでしょう。

イエス様を苦しめたのは、かつてイスラエル民族を苦しめたカナン人の血筋、なのでしょうか。

DNAのさらなる解析を求む。

新郎新婦の関係の意味

思いついたから書いておく系の記事。

昨日はチョウンさんからの話を聞きました。

話を聞きながら、チョウンさんは愛の人だなあと思いました。

また、敏腕なビジネスマンだなあとも思いました。

そして、摂理を一つの家庭のように思っていて、母のようでもあるなあとも思いました。

話している内容が、母。
母でしか話せない内容が盛り沢山でした。

まさに、新郎新婦の時代の新婦を体現しているなあと思いました。

今は新郎新婦の関係だと私たちは何度も学びましたが、それを真実に実践している姿をチョウンさんから見ることができました。

新郎新婦というと、僕らのイメージでは「幸せいっぱいうきうきらんらん」な関係を想像します。

しかし、現実はそうでもあるけれどそれだけではないということがわかりました。

チョウンさんの「命を管理してこそ摂理の甲斐を感じる」という話からは、世間一般にいう「子どもは夫婦の蝶番」という言葉を感じさせましたし、「先生が獄を出てきてからしばらくは嵐に見舞われた」という話からは、新婚当初の生活がそれまでとは違うことに戸惑いを覚える様子と似ていることを感じました。

新郎新婦の関係になるとは、今までとは全く別の生き方に変化することなのだと。そういう悟りがありました。

お互いの生活の中での様子まで見えるのが、恋人関係とは違うところです。

先生も、2018年には弟子たちにかなり失望したという話をよくしていましたね。我々のガッカリな様子は記録に残ってます。ハレルヤ。

先生は弟子たちの様子にびっくりし、弟子たちは先生の様子にびっくりしました。

新婚生活とはかくしてそういうものなのだなと思います。

僕の両親も、結婚当初にはお互いの生活スタイルの違いにかなり戸惑ったと話していました。

新郎新婦の関係になるということは、今までにない大きな変化を経験するということです。

そして、今が新郎新婦の時代ということは、世の中で大きな変化が連続して起こるということでもあるのではないでしょうか。

大きな変化が起こりそうであることは、人工知能の台頭やバイオテクノロジーの発展のニュースを見ていれば誰でもなんとなく感じます。

変化し続けることが当たり前の時代、それがこれからの時代であり、「新郎新婦の時代」という意味の一つなのかもしれません。

変わっていく中でも結婚生活を続けていけるのは、そこに変わらない愛があるからです。

これは、家庭でも、摂理でも、これからの時代を生き抜く上でも必要なことです。

「〜してください」という祈りについて

御言葉の量が、一時期よりは少なくなってきました。

以前があまりに多かっただけですが。

以前聞いていた量が体質になっているせいか、耳さみしいような思いもあって、最近僕はオーディオブックを聴いています。

オーディオブックとは、市販の本を読み上げるサービスです。

いろんな本を聞いてみて、NLP(神経言語プログラミング)の本にこう書かれていました。

「目標は完了形で書きましょう」

どういうことかとオーディオブックを聞き進めると、こう書いてありました。

「〜なりますように」「〜したい」という目標の立て方は、暗に「現在の自分はできていない」というメッセージを含んでおり、脳が「できない自分」をイメージしてしまうので、目標達成が難しくなる。

とのことです。
つまり、ネガティブ思考になってしまうということですね。
自覚しているしていないに関わらず。

だから、「〜できました」という完了形で目標を立てる方が脳にとって良いそうです。

「〜できました」という目標の立て方だと、脳が「できた自分」をイメージして、できた自分にとってふさわしい行動を実際に起こすようになるとのことです。

これはたとえば、「梅干しを十個口に頬張って1分間我慢する」と想像すると実際に唾液が出てくるように、脳の生体反応として、イメージするとそれにふさわしい体の反応が起こるのと同じ原理です。

逆に、「できない自分」をイメージすると、脳はそれにふさわしい認識と行動を取るように体に指示をします。

この話を聞いて、あっと気づいたことがあります。

お祈りについてです。

私たちは願っていることを祈ります。
けっこうたくさん祈っています。

そして、そのほとんどが「〜なりますように」「〜してください」という形になっているということです。

「主が100%してくださる」という確信があれば弊害はないのですが、こうした祈りの形は謙虚さを表すという反面、見方を変えれば、脳にとっては「自信の減退」という側面を持っています。

元々謙虚な日本人にはこの側面がより強く現れているかもしれません。

必死に祈れば祈るほど疲れる、虚無感に陥る。そのような経験をしたことがある人は、たぶん僕だけではないはずです。

10年くらい祈ってるのにまだ実現していないこともあります笑

それもそのはず、祈る度に「できない」というメッセージを何度も何度も自分の脳にすり込んでいるからです笑

先生は祈りについてたくさん御言葉をくださっていますが、おそらくそれをちゃんと学べていない可能性があります。ちゃんと学べば、僕がしている祈りとは変わるのではないかと最近思っています。

そもそも、先生は求める祈りについては僕らがしているほど強調していません。

「求めよ」とはいいますが、その後に必ず「探せ、門を叩け」と言います。つまり行動しろと。

そして、求めのお祈りについても「もうしてくださったと思ってするとよい」とおっしゃっていたことがありました。

聞いた当時は???でしたが、少し理解できた気がします。

伝道の時は、「あらかじめどんな人と会いたいか具体的に祈ってから出かけると本当に会える」という話をたくさん聞きますね。

何にせよ、まだまだわかっていないことが多いですね。

ペテロの話でした

ペテロの話でした。

元々漁師だったペテロは、イエス様との出会いで運命が大きく変わりました。

今朝も先生の御言葉を聞きましたが、なんか頭に浮かんできたのは、「ペテロって文字かけたんだな」ということでした。

『ペテロの手紙』を書いてますが、元々漁師だし、2000年前のイスラエルの識字率なんてすごく低いだろうし、聖書のペテロのキャラ(ときどきおかしな発言や行動がある)のを見ると、元々文字も書けなかった可能性はあります。

それが、聖書を書くまでになった。これも大きなしるしだなと思いました。

ペテロだけでなく、聖書を記した人たちって、かなり高度なスキルを持っていたんですね。義務教育が無かった時代、どうやって文字を覚えたのかが気になります。

パウロやモーセが聖書を書いたのはわかる気がします。幼少時代から高等教育を受けていた人だったから。

でも取税人(現代でいうNHK集金人のようなもの?)であるマタイや、医者(昔の医療はまじないのようなものが多かった)であるルカが文章を書くのは実はものすごいことなのでは。

ペテロは、もしかしたら人生の晩年になって文字を勉強したのかもしれません。証したい一心で熱心に勉強したのだろうか。

などと考えていました。

しかしwikiを見たところ、「『ペテロの手紙』は文章が洗練されすぎているので、ペテロが書いてない可能性もある」と書かれていました笑

ペテロ信じてもらえてなくてかわいそう笑

ペテロはイエス様に会ったことで、文章という、当時としてはかなり高等な技術を習得したしるしをも起こすことができたのだと、僕は思いたいと思います。

受けるより与える方が幸い

「求めなさい」という先週の週の御言葉を思い返して、私たちがすべきことは求めることより与えることであったな、ということを今さらながら思いました。

求めることは私たちが神様の前で果たすべき責任分担なので当然として、私たちが普段「神様の心をください」などと祈っていることを踏まえれば、御言葉で「神様は与えることが好き」と話していたそのことを私たちが実践することが、御言葉の本当の実践なのではないかな、また先生が願っていたことなのではないかなと思いました。

それぞれが与えることを実践したら理想世界が成される、というのは誰もが想像できることです。

遠い将来、御言葉を世界の多くの人が聞くようになり、それぞれが高い人格と信仰を持っていて、その時に「求めなさい」の御言葉が出たならば、みなが与えることを意識して、その日はお祭りのような、サンタが子どもたちにプレゼントを用意するクリスマスのような、そういう日になるのではないかと思います。

先週、あまりそういう雰囲気にならなかったと僕が感じたのは、まだ御言葉を実践しきれていないことが多いからでしょう。

すでに2000年前に、与えることは受けることより幸いだと、イエス様は言っています。

今は転換期

日曜の御言葉を聞いて、今は転換期なのだということを改めて感じました。

拡大縮小すれば今が成就した時だとも言えるし、10年前の困難な時が転換期であったとも言えますが、今週の御言葉は今が転換期だと、そこにフォーカスが当てられました。

それは、10年前のような大きな迫害は無くなったが、心が弱くなっている人がいるということ。

これがちょうど、出エジプト記にされている、イスラエル民族がエジプトの圧迫から逃れてカナンに向かう途中で心が挫けてしまう、またモーセにつまずいたことと流れが一致しています。

または、預言者エリヤがバアルの預言者850人と勇敢に戦って勝った後で、自暴自棄してしまう時と同じ。

たくさん学んだことであるにもかかわらず、私たちは自分が同じ状況に陥ってしまっているということです。

今、私たちが学んだ御言葉を実践するなら、ここでやるべきことは、イスラエル民族のように落胆することではなく、ヨシュアのように、大胆に行って日を止めることですね。

ヨシヤ王の立場から考える「無知の中の相克世界」

無知の中の相克、ヨシヤ王の話でした。

何度か聞いている話ですが、今また必要な御言葉でした。特に民族間の感情において、今わきまえておかなければならない話でした。

話の内容は、一度聞けば誰でも理解できます。

ところが、それを実践するとなるととても難しい。

御言葉は神様の立場から話された言葉で、「ヨシヤは余計なことをし、エジプトと争うべきではなかった。」という話は、答えです。

答えだけ見れば、誰でも納得がいきます。

そこで、問題の方を見てみます。人間的な目でヨシヤを見るということです。

すると、「争うべきではない」という答えを導くことがけっこう難しいことがわかります。

まず、聖書にはヨシヤが8歳で王になったということが書いてあります。

遊びたい盛りの今でいう小学生低学年の子どもが、いきなり全民族の責任を負わされるわけです。問題です。

なぜ8歳で王になったかというと、ヨシヤの父で先代の王でもあったアモンが殺されてしまったからです。

殺したのは、アモンの家来たち。

今でいうクーデターです。当時の政治が混乱していたことが想像できます。

アモンは主の前に悪を行なった人で「主の前に身を低くしなかった」と書いてあるところから、横柄な人で、それで家来の反感を買ったのかなあと想像できます。

アモンが王になったのは22歳で2年国を治めたと書いてあります。つまり24歳の時に死んでいます。

その子ヨシヤがその時8歳だったということから、アモンは16歳で子どもを産んでいることになりますね。そんなところからも、アモンの軽はずみな性格がうかがえます。

そのアモンの父、つまりヨシヤの祖父はマナセ。マナセは老年には悔い改めて主を敬うようになりますが、若いころは好き放題やっていたようで、占い師を任用したり子どもを火で焼いて捧げものにしたと書いてあります。

もし、現代の総理大臣が占い師を大臣に任命したとしたら、国民は誰でも怒るでしょう。ましてや子どもを焼くという行為が現代では想像ができません。なんの意味があるの?

それはともかく、ヨシヤはその祖父も父も愚か者だったわけです。

その政治にうんざりした国民によって、ヨシヤは王に立てられました。

周りは強敵に囲まれているし、祖父や父はろくなものを自分に残さなかったしで、腐敗し混乱した世情の中、ヨシヤは人には頼れず、主を頼るしかないような状況のなかで育ったのでしょうね。

先生のようです。

「父や祖父のようにはなるまい」ヨシヤはその思いが強かったのか、偶像を徹底的に排除します。

「もろもろのバアルの祭壇を、自分の前で打ちこわさせ、その上に立っていた香の祭壇を切り倒し、アシラ像、刻んだ像、鋳た像を打ち砕いて粉々にし、これらの像に犠牲をささげた者どもの墓の上にそれをまき散らし、 祭司らの骨をそのもろもろの祭壇の上で焼き、こうしてユダとエルサレムを清めた。」
‭‭歴代志下‬ ‭34:4-5‬

粉々にして、墓に撒き散らし、墓の中の骨を焼いた。

相当怒っている様子がうかがえます。偶像だけに止まらず、それを行う人への怒りがものすごいです。きっと親への複雑な感情も混じっているのかもしれません。

偶像を排除したヨシヤは、過越の祭りを再開しました。

イスラエル統一王国時代とその後に続く南北分立時代に過越の祭りを行ったのは、ソロモン、ヒゼキヤ、そしてヨシヤの3人だけだったそうです。

イスラエル民族独立の象徴とも言えるその過越の祭りを、ヨシヤとその民族は盛大に行いました。

かつてエジプトの奴隷だったイスラエル民族が、モーセを通して解放された。

奴隷としてしえたげていたエジプトに10の災いを下した神様。

しかしその災いを、神様はイスラエル民族には過越された。

エジプトから救われたその過去を、人々は記憶に再び刻んだわけです。

その記憶がまだ消えないうちに、エジプトが軍隊を率いてヨシヤの土地を通っていったわけです。

ちょっと待てよと。お前らまたあれか、また奴隷にしようとするつもりかと。

多くの人は反射的にそう考えるでしょう。

エジプトのネコは「通り過ぎるだけだ。」と言いますが、そう簡単に信じられるものではないと思います。

現代でいうなら、日本の自衛隊が韓国の領空を飛んでいくようなものです。ものすごい騒動が起きることが予想できます。

たとえ日本が「韓国を救うためだ。通してくれ。」といっても大きな国際問題になるでしょう。

そのようなことが、その時ヨシヤの国でも起こっていました。

国中が大騒ぎだったでしょう。ただでさえ信じ難い話である上、親も信じられないような境遇で育ったヨシヤです。

しかも通っていくのはヨシヤの忌み嫌う偶像崇拝をする国。

人間的にいえば、信じるということはかなり難しいことだったと、ヨシヤに同情してしまいたくなります。

ヨシヤは戦いに出て、死んでしまいました。

これらが、人間の側から見た問題です。

これらの問題を抱えて、なお「争ってはいけない。」という答えを得られるかどうか。

先生は、「ヨシヤは歴史を学ばなかった。ヨセフの時代にヨセフがエジプトを救った、そのお礼をヨシヤの時代にしようとしていた。」と言いました。

無知の中の相克世界。

私たちは簡単に学びますが、これを悟るのはあまりにも難しいことです。

神様の目的と人間の目的

目的について話してくださいました。

目的について、最近感じることがありました。

神様の目的と、人間の目的は違うのだなということです。

それを感じるようになったのは、他人の目的としていることを聞いたときです。

最近は価値観が多様化しているので、他の人が目的としていることに対してよくわからないことも多くなってきました。

「この人はどうしてこのことに熱心になっているのだろう」

誰でも、そう考えることは多いのではないでしょうか。

それでも、人それぞれだから、その人の好きなものに対して理解しようとすると思います。

それが近しい人だったらなおさらです。

自分の子どもが、ある特撮ヒーローに対して「会いたい」という目的を持っている場合、親はなんとか会わせてあげようとすると思います。

子どもを愛しているからです。

子どもが「ヒーローに会いたい」、という目的を持つとき、親は「子どもをヒーローに会わせたい」という目的を持つわけです。

こと2つは、似ているようで全く違います。行動としては「ヒーローに会いに行く」ということになりますから同じになりますが、その心は違います。

その異なった目的を1つに結び付けているのが、愛です。

もし、Aさんが通りすがりの赤の他人のBさんに突然「すみません、ヒーローに会いたいんですが一緒に行ってくれませんか」と言ったら、 Bさんは断ります。

Aさんには「ヒーローに会いたい」という目的があってもBさんには「 Aさんをヒーローに会わせたい」という心が生じないからです。

それは、まだ AさんとBさんの間に関係性がないからです。

人間と神様も同じです。

お互いに愛の関係がある時は、人間の目的を神様は叶えようとしてくださいます。

それが神様の喜びにもなるからです。

しかし、人間が神様から離れている時、神様には人間の目的を叶えようとする心が生じません。

人はお金が欲しいとか名誉が欲しいとか考えますが、それはもともと神様が持っているもので、人間の求めることは神様にはわりとどうでもいいことです。

人間が神様の癪にさわることをしているときは、神様は人間の目的を容赦なく潰します。旧約聖書にはそんなシーンがたくさん出てきます。

だけど、人間が神様の目に愛らしく映るとき、その愛で神様は人間の目的をなんとかして叶えようとします。

だから、求める技術というか、そういうものが必要になるんだと、この前思いました。

この前、ふと「先生の御言葉にルターがよく出てくるがルターはどんな思想を持っていたのだろう」と思ってググってみたらこんなサイトを見つけました。

https://suomikyoukai.xsrv.jp/?tag=祈り

ルターの言葉や著作をまとめたものなのかな。

いい言葉もたくさんありました。

「心の中だけではなくて、口にも出して、祈っていくことが大切です。

祈りによって私たちは戦い、祈りによって私たちは勝ちます。

主なる神様は、
御自分に乞い求める者たちが激しいほど熱心であることを、
喜んで見ておられます。
それゆえ、
私たちはこの「乞い求める技術」を学ぶべきです。
それは、
私たちがよく神様に祈るためであり、
神様を避けたり神様に祈ることを躊躇したり止めたりしないためです。

神様は
たくさんのことを私たちに与えたいと望まれており、
それが御自分の栄光を輝かせることにもなると思われています。
私たちが神様から多くのよいことを期待して祈るのは、
神様にとって喜ばしいことなのです。」

聖書で明らかに絵で描いた方がいい箇所が文字で書いてある理由を考えた

聖書を読んでいて、誰もが退屈に思う箇所があります。

「◯◯は何キュビト、××は何キュビト…」とずっと続く箇所です。

旧約聖書のいろんな箇所に出てきます。箱舟を作った時、聖殿を作った時。

ここも聖書だから神様が教えたい何らかがあるのだろうと思って読んでいましたが、なかなかわかりませんでした。

数式で書けばいいじゃん。

いやそもそも絵で描いたらいいじゃん。

現代的に言えば、こういった箇所は数式か絵で描くことが多いです。

数式で書けば、後世の数学者が研究材料にできます。

図面で書けば建築士が読んで建造物を再現できるし、絵で書けば一般の人にもわかりやすい。

なのに、なぜか文字列。かたくなまでに文字だけ。

文字で書いてあるから、いろんな解釈ができてしまいます。

不思議です。

僕なら「◯◯は何キュビト、××は何キュビト、なんですが、文字で説明してもわかりづらいですよね。これを絵にしたものが図1になります。」

と書いて次ページに神絵師に書いてもらった一目見てわかる絵を載せます。

先生は聖書を教える時に絵を使いますね。

しかし旧約聖書も新約聖書も、その時々の中心人物やイエス様やその弟子が絵を描いたという記録がありません。

黙示録なんか絵で描いたらすごく恐ろしい裁きであることが一目でわかるけど、一生懸命文字で書いてあります。

黙示録を書いたヨハネは絵が下手だったのかな。たぶん黙示録を書いた時にためしに絵も描いてみて「だめだ、この絵じゃ恥ずかしい」と思って消したのかな。などといろいろ考えてしまいます。

そこで思ったのは、イスラエル民族は御言葉に特化した民族たったのだな、ということです。

同時期の他の文明では巨大なピラミッドや壁画、さまざまな学問が発達する中で、イスラエルはそこに強みがあったというわけではなく、言葉が強かった。

「言葉は神である」と聖書に書いてある、その言葉、神様に強い民族だったのだなということです。

周りを強大な国に囲まれた小さな国で、軍事が発展するよりか、文化芸術が発展するというよりかは、御言葉が豊富にある国だった。

そういう位置、そういう強みのある民族だったんだな。

そう考えるとスッキリしました。

今、ユダヤ人はビジネスに強かったりアルゴリズムを作るのが得意だと言われています。

ビジネスは言葉の文化だし、アルゴリズムを書くプログラミングではやりたいことをすべて文字で表現しなければなりません。

ユダヤ人がこうした分野に強いのは、昔からなんでも文字で残してきた、文字に強い民族性があるからではないかと思いました。