「自分には何もできないと思っていたけど、メンターと出会って時間を共にしていたら、できる気がしてきて、そのうち出来るようになったんだよね。」
今日、仕事中に実業家のお客さんと談話しているときに聞いた言葉です。
「こうなりたい、という人と一緒にいる時間が長いほど、その人に似てくるよ。」
私たちのメンターは主です。
もっと主と共にする時間を増やしたら、もっと主に近づけますね。
日曜日に、先生がゴリラの左手を引っ張って殺した話がありました。
北朝鮮にはいろいろな逸話がありますが、その中に「金正日の左手は麻痺している」というものがあります
。
式典や視察に姿を現す金正日は、いつも左手を動かさないんですね。
以前は映像を見ながら、「すげえ、ほんとに動かさないぞ。」ぐらいにしか思っていませんでしたが、御言葉を聞いて見方が変わりました。
目には見えませんが、金正日の動かない左手を、先生が引っ張っていたんですね。
今までずっと疑問だったことが解けました。
疑問というのは、箱根駅伝の学連選抜のことです。
このチーム、優勝経験がありません。
選抜なのに何で勝てないのかが、素人の僕には疑問でした。
以下は有名な話かもしれませんが、目から鱗だったので載せます。
「箱根駅伝で学連選抜ってあるだろ。
予選落ちした大学にもめっちゃ早い奴はいて、そいつらから選抜して作ったチーム。
普通だったら優勝するはずじゃん。
だけどいつも違う大学が優勝するよね。
何でだと思う?
たすきをつなごうって気持ちがないんだよ。」
勝利するために何が必要なのか、考えさせられました。
析という漢字についての御言葉がありました。
以前は明について話してくださったこともありました。
漢字には言外のメッセージがたくさん含まれている、ということがわかり、文系人間にはとても興味深い話でした。
義も何度か出てきたことがありました。
義という漢字は、一般的には使いません。
誰かが義とか正義とか言っても、おかしいというか大げさというか、不自然さを感じます。
なぜそう感じるかは一概には言えませんが、長い歴史の中でそうなってしまった風があります。
以下は小説ですが、司馬遼太郎著「項羽と劉邦」からの抜粋です。
義は、正しさのために自然の人情を超える倫理姿勢をいう。この語感には、後世、「外からかりたもの」という意味が加わってゆく。この当時から、すでに「実行上むりはありながら」という意味もことばのなかにまじっていた。
言葉もいろいろないきさつを経て今日に伝えられ、それが私たちの認識になっているんですね。
義に比べると析は、御言葉で「よくわからない」といわれていたように、複雑ないきさつがなく、純粋な言葉であるといえます。
先生の名前に加えられたことで、これから良い意味をたくさん持つ漢字になっていくのではないでしょうか。
妹に子供が産まれた。
まだ首は座らないし、一日中泣くか寝るかしかできないけど、じっと見ていると「自由に動けるようになりたい!」と言うかのような、ものすごい力を出している。
手足を忙しく動かしたり、しきりにあたりを見回したり、何かしゃべろうともがいていて、この姿が赤ちゃんの可愛らしさなのかなと思う。
赤ちゃんが産まれてから、全ては赤ちゃん中心になった。
妹はすっかり母になってしまったし、あんなに年をとるのを嫌がっていた両親も、「じじですよ」「ばばが抱っこしますよ」とか言っている。
僕も伯父だ。ふと「お年玉どうしよう」とか考えてしまう。
新しい命が産まれると、その子が中心になって周りの環境が変えられる。そのように、自然な形で、新しい時代は世の中を変えるのだと気づいた。
世界陸上終わっちゃったけど、ハイライトで見ていると競技前後に選手が祈っていて、この人たちもそれぞれの次元で主と共にやってるんだなと。
日本は長距離の新谷選手だけが祈っていた。
ジャマイカのボルトは走る前にいつも祈る。
100メートル決勝は失格になったけど、「あれはミスだった」と言って「祈っても意味ない」とならない人格は学びたい。
200メートル予選ではボルトが祈ると、実況は「いつもと変わらない、ここまでの、ルーチン」
ルーチンじゃねえし。
世界中の人が集まるこういう舞台を見ると、我ながら日本人は特殊というかガラパゴスだと感じてしまう。
イエス様が島国根性呼ばわりするのも認めざるを得ない。
66年前の8月15日、日本は敗戦した。
この戦争で、300万もの命が失われ、多くの街が失われ、莫大な財産が失われ、あらゆるものが失われた。そして、日本人は信仰をも失った。
日本人はもともと信仰心の強い民族だった。
太平洋戦争も、神様が共にして絶対勝てると信じていた、とおじいさん世代の人が言っているのを聞いたことがある。
鬼畜米英から日本を、アジアを守るため、「天に代わりて悪を討つ」とみんなで歌いながら戦っていた。
武器は旧式で、戦争末期には竹槍さえ使ったけど、強い精神力があれば兵力の差は関係ないはずだったし、なにより困ったときは神風が吹いて助かるはずだった。
なのにひどい負け方をした。
信じていたのは、陸軍が人心を操るためにでっちあげた宗教だったとわかった。
以来、日本人は信じることをやめた。
この傷は深く、66年たった今も世代を超えて受け継がれてしまっている。
「宗教とは狂気」、「宗教とは狂った教祖と洗脳された群集の団体」といった認識を持つ日本人。
この認識のルーツは、他でもない、戦時中の私たち日本人の姿である。
戦争によって負っていまだに癒えていないのは、放射能によって負った体の傷、今も残る借金の傷、そして心の傷、思想の傷である。
現状に満足しないと、と思っていたから、御言葉に救われた。
もちろん過去と比べると現状には感謝しかないが、だからといって現実に執着するべきではない。
主から受けた恵みを30個数えてみなさい、と聞いた時、正直負担に思ったけど、御言葉でアトピーが治った人の話が出て、自分もそうだったことを思い出しました。
僕は幼いころからアトピーでした。
ダニ、ほこり、油、卵などがダメで、とにかくずっとかゆくて、かきすぎてそこらじゅう血だらけにしていました。
食事に気をつけ、不潔な環境を避け、水泳を習い、ステロイドを使い、針もしましたが、治りませんでした。
しかし御言葉を聞きはじめたとたん良くなりました。
以来、何を食べても、ほこりっぽい環境にいても発症しません。
この恵みは、ほとんどの人には理解できません。
かゆくないのが当たり前だからです。
かゆくない人生というのは、アトピーの人からすれば天国です。
先生が明け方1時間、神様、聖霊様、イエス様をあがめる祈りをするというから、真似をしようと思ったけど言葉が浮かばなかった。
そんなとき、詩編を読んだらダビデが主をあがめまくっていた。
詩編オススメです。