自分の問題は自分では解決できず、主を通して解決できる。ナアマン将軍の場合。

問題にばかり神経を使うと解決できない、聖霊に神経を使うと問題が解決できると言いました。

人間は問題で御言葉は答えだと言います。

自分の頭でいくら考えても、問題が解決するどころか泥沼にはまっていく悪循環に陥ってしまうことがあります。

思い出したのが旧約聖書に出てくるナアマン将軍です。

百戦錬磨の勇敢な将軍でしたが、重い皮膚病にかかってどうやっても治せませんでした。

そういうキャラいますよね、めっちゃ強いんだけど一つだけ致命的な弱点があるやつ。

そういう感じの人です。

そこへ預言者エリシャの噂を聞きつけます。どうやらブラックジャック並みの腕前らしいと(正確には聖書をお読みください)

レア情報ゲットってことですっごい準備して、お歳暮とかどっさり用意してエリシャん家の前まで行くんですが、エリシャってわりと気難しい性格なんですよ。

エリヤの2倍の霊力をもつと聖書に書かれているほどの実力者なんですが、ちょっと性格がね。

そういうキャラいるじゃないですか。天才なんだけど、そのせいかちょっと変わった性格の人。

そういう感じの人です。

そういうキャラですから、ナアマンがたずねて来ても家から出てこずに、使いの者に「ヨルダン川で7回体を洗え。」とだけ言わせるんです。

ナアマンは将軍ですよ。そういうね、礼をわきまえてないやつって大嫌いなんです。しかも言ってる意味がわからない。病気を治すのに川で体を洗え・・・だと!

しかもヨルダン川ってめっちゃ汚かったらしいんですね。今だったら「体を洗え」なんてアドバイスしたら衛生上アウトだよってくらいの川です。

ナアマンはキレました。

「いや、こういう時って本人が出てくるもんじゃん!患部に手とか置いて、主の名を呼んで治すもんじゃん!キセキってそういうのじゃん!」と言いました。(正確には聖書をお読みください)

しかし臣下が賢い人たちでした。ナアマンをなだめるんです。

そういうキャラっているじゃないですか。ボスがだめだめなんだけど臣下が頭がキレる連中で、そのおかげで組織が保たれているという。

そんな感じです。

臣下たちは「まま、お怒りなさいますな。エリシャは何も難しいことを言っているわけではございますまい。せっかくですから、ためしにやってみてはいかがですか。」

「うーん、まあいいけど」将軍はしぶしぶ言うことを聞きます。

しかし、7回体を浸さなきゃいけないとエリシャはいいました。めんどくさっ。

途中でナアマンは投げ出しそうになるんですね。将軍ですから、体を浸すとか地味なことが大嫌いなんです。もっとド派手にやりたいというか。

それでナアマンがキレて、臣下がなだめるというのが繰り返されます。そのやりとりを、先生はずっと昔に御言葉の中で楽しく話してくれたことがあります。

なんやかんやでナアマンはエリシャの言った通りにやりとげます。すると、病気は治るんですね。

こんなふうに、問題の解決は自分ではどうにもならないことが、主を頭にすることで解決することがあります。

私たちの願っていること、解決したい問題というのは、自分で頑張ったところでどうにもならないことが多いです。

御言葉であれやこれや「しなさい、するな」と言われてそれについて文句が出てくることがありますが、そうしても何も変わりません。ナアマンのように。

だったら「1%の可能性でもあれば」という御言葉もあるので、心と考えをくじけさせずに、そこにかけていく感じです。

人を導けるのは真実に愛するから、柔和でへりくだった人格があるから

命を導けるのは真実に愛するからだと言いました。

箴言では、主人は自分のものだから貴重に扱うのだと言いました。

だから、愛の主権を持つことが必要です。

主人について、ポンソクさんがこの前リーダーシップ論を話されていましたが「一メートル上げられたなら自分で一メートル降りてくる」姿勢が必要だと言います。柔和でへりくだることだと言っていました。

その言葉どおり、ポンソクさんはものすごく腰が低い方です。

お会いしたときは必ず低姿勢で一人一人に握手されます。

しかも、低い位置にいる人のことをよく気づかれるというか。

これはチョウンさんもそうなのですが、ほんと、どうやってそれに気づくんだろうというくらい、よく気がつかれます。

群衆がたくさんいる中でも、天がどこに注目されているかをいつも気にして、自らそこに入っていかれる姿があります。

しかし、昔からそうではなかったような気がします。

僕が初めてポンソクさんをお見かけしたのは10年以上前、黒いスーツに、真っ黒なサングラスかけて、黒い車に乗って、そんで月明洞の運動場を走って行く姿でした。

迫力満点でしたねww

その数年後、初めて握手をした時も、さっさと握手していくというか、はいはい次々、みたいな雰囲気でした。

すごく緊張したのを覚えています。

それが、いつのまにか変わられていた。

僕は過去のど緊張の握手を覚えていたから、「握手はいいや」と思っていたんですww

そしたら全然違って、一人一人に「ありがとう」といいながら、手をぎゅっと握るんです。

それがけっこう胸にくるんですね。

そのように変わられたポンソクさんが、先日話されたモーセのエピソードがとても印象的でした。

モーセってイスラエル民族を導くにあたって、けして自分を頭にしないで「私にはできません。主が行なってください」というへりくだる人格者ですが、若いころはそうではなかったのだと。

なにせ王族に育てられた人だから、自信満々だったはずだろうと。

「神様!イスラエル民族を僕に任せてくださいよ!うまいことやってみせますよ!」という感じではなかったかと。

イメージつきますよね。ボンボンなんだってことです。

それが、いろんなことを経験する中で磨かれていき、ついにホレブ山で燃える柴の出来事が起こります。

神様に「靴を脱ぎなさい」と言われました。

靴を脱ぐ、つまり過去のものを全部葬ったのだといいます。

それからのモーセには、若いころの姿が見えなくなったといいます。

モーセは口が重い人だという記述もありますが、それは元からの口下手なのではなくて、考えが深くなって、話すことがなくなったのだということだそうです。それで話すことがうまいアロンを立てました。

そのように愛を備えたから、イスラエル民族を導くことができたのだといいます。

メディアはその意図を知ることがだいじなように、御言葉は神様の意図を知ることが大事

メディアに気をつけなさいといいました。

年末年始は面白い番組がたくさんやっていますからね、気をつけなければいけません。

メディア自体が悪いわけではないんです。それに接する私たち自体に問題があります。

たとえば、ちょっと必要なことを調べるつもりが1時間ネットサーフィンしてしまったとか。

面白い記事を読んでいたら関連記事の案内があって、興味があるからそこをクリックしたらそこには商品案内ページがあって、そこから別にはじめはほしくなかった商品を買ってしまったとか。

目的はそこじゃなかったでしょ。ということで、「メディアに気をつけなさい」です。

ずれていくことを神様はすごく嫌います。

なぜなら、ずっと昔にエバがだんだんずれていって、ついには堕落してしまったからです。

そこから大変な思いをしながら救いの歴史をつくってきたからです。

だから、どうかまたずれるようなことがあってほしくない。

そういうやきもきした心情で人間を見ています。

メディアは必要なものです。

私たちが自分では知りようもない情報を教えてくれるツールです。

誰かが、どこかへ行って、見て、取材して、編集したものを見ています。

つまり、必ず誰かの手が加わっています。何かしらの意図が入っているんです。

これは私の意見ではありませんよ。大手出版社に働いている方がおっしゃっていたことです。

ちょうど昨日、教会のLINEグループに出版社の方が書いた手記が回ってきたので読みました。

それによると、どんな取材であれ、記事であれ映像であれ、それは何かの一部分を切り取ってものです。

カメラが右を向けば右のものが映る。そのかわり左にあったものは見切れてしまいます。

編集上、左のものを入れる時間がないこともあるし、世間体を考えてそれをカットすることもあるそうです。

ほんとうに公正な取材はできるものだろうかと、そこには書かれていました。

私たちは自分ひとりでは世界で起こっていることを知ることはできません。

だからメディアを通して、誰かが取材してきたものをわけてもらって、自分のものとしています。

だから、私たちがメディアに接するときには「どういう意図があるのか」まで考えなければなりません。

御言葉も、広い意味で言えばメディアです。御言葉で話される内容は多岐にわたりますが、そこに含まれている意図、神様の愛を感じることが大事です。

神様の考えは清潔な考え、鋭利な考え。

清潔にしなさいと言いました。

神様の考え通りにすると、清潔になるのだといいます。

神様の歴史は罪からきれいになることだとも言えるから、神様はずっとそのことを考えてきたんですね。

「清潔に」というのは体のこともありますが、それよりは心や考え方のことを指しています。

いろいろなことを考えてごちゃごちゃしていると、神様は働きかけづらいです。

より聡明な考え、鋭利な考えを持ったときに、神様は働きかけやすくなります。

人間の考えは変わり、神様の考えは変わらないから神様の考え通りにする必要がある

神様と主の考えどおりにしなさいといいました。

特に強調されていたのが、「神様はみ~~んなを愛す。人は特別の人だけ愛す。」というところでした。

神様の考えと人間の考えは違う。こうした考えの違いを認識して、自分が神様の考えになっているかをいつも確認しなければならないといいました。

いつも確認しないと、私たちの考えはだんだんと自分中心になっていってしまいます。

神様の考えで行えば得るものが多く、自分の考えで行えば得るものが少ないのだといいました。

神様の考えは、人間の歴史が始まったときから変わりません。

人間の考えはよく変わり、文明も変わり、法律も変わり、ファッションも食べ物もあらゆるものが変わってきました。

その中で、ひとすじの「神様の考え」だけが変わらないで脈々と受け継がれてきました。

たとえば、毎年ものすごいたくさんの数の本が出版され、さまざまな「考え方」が人に知恵を与えています。日本だけでも年に8万冊が出版されているそうです。

その中で、聖書ほど長く読まれ、たくさんの人に読まれ、その「考え方」が人に知恵を与えている本はありません。

このように、人間の考えは変わっていきますが、その中で変わらないで続いていく「神様の考え」というものがあります。

この、「ずっと続いていくことができる」神様の考えどおりにすることが私たちには必要です。

「主がそばにいると思って生活する」は並大抵のことじゃない…!

生活の運営、生活の管理をちゃんとしなさいと言いました。

僕もそうでしたが、生活力の低いズボラ男子たちの耳に痛い話でしたね。

生活については、以前から御言葉で「主が隣にいるように」ということを教えてもらっています。

神様がそばにいるとしたらそのような生活をするのか。それを考えると、どう生活の運営をするべきか意識が変わりますね。

それは「むやみな生活をしない」とか「対話を欠かさない」などの個人に関わることもありますが、もっと大きな意識の変化も必要になってきます。

というのは、神様と自分1人のために働かれる存在でありながら、同時に世界のあらゆることを治めている方だからです。

一国の大統領と一緒に暮らすだけでも考え方と生活をガラッと変えなければならないように、神様もそうです。むしろもっと大きな変化を求められると思います。

すると、生活の中で何を行うべきか、考えることが激増します。

主がそばにいると思って楽しくショッピング…だけじゃない!主は今アメリカに働きかけて北朝鮮をなんとかしようとしているところだから私も何かしなきゃ!とか。たとえばの話ですよ。

最近のニュースで、トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都だと宣言しましましたが、それってどういう神様の御心があるのか。世界への影響は?将来世界はどうなるのか。

そういう、神様の御心、世の中が向かう先について、神様のそばで生活するのだとしたらもっと知っておかなければならないことがたくさんあります。

もちろん、神様の働きを全部知ることは1人の人間には不可能なことなので、個性にしたがって、ある人は目の役割をするし、ある人は耳の役割をすることになります。

自分に与えられたぶんに応じて、主と共にした生活の運営をしていきたいですね。

摂理の時価総額をあげなきゃいけない。

私たちの価値が摂理の価値だと言いました。

御言葉の価値がどれほど大きいものなのか、御言葉を聞いているとわかりますね。
私たちの価値がどれほど大きいのか。御言葉を聞くとわかります。
月明洞の岩や木がどれほどの価値があるのか。これも御言葉を聞くとわかります。

これらは、元々は価値を認識されていないものでした。ほぼ0だったと言ってもいいでしょう。

その価値を、先生がすべて上げてきました。

どこにでもあるような木や岩の価値を、0からよくわからない単位にまでぶち上げさせたのは、先生の功績によるものです。

無から有を作り上げたわけです。

そうして今の摂理があります。

先生の功績イコール今の摂理の時価総額です。

その恩恵を私たちは受けています。

しかし、それだけではいけません。

次元を上げることは私たちからも行わなければなりません。

先生が300までやった。700までやるのは誰なのか。

私たちが、先生のように価値を上げていく行いをする必要があります。

そうすることで、摂理の価値は上がっていきます。つまり運命が変わっていくということです。

切実さが神様の心を変える

今日の御言葉は、神様を揺さぶる祈りをしなさいといいました。

今の祈りの条件ではさまざまなことについて祈っていますが、その中で「神様を説得しなさい」とも言っていました。

神様を説得?神様は説得される方なのかとも思いますが、聖書にもなんども神様がはじめに決めたことを変える箇所があります。

ヤコブが神様と相撲をして勝ったり、神様に死ぬといわれたヒゼキヤ王の寿命が延びたり、神様に滅ぼされるはずのニネベの町が助かったり。

そのような神様が揺さぶられたきっかけには必ず「人間の祈り」がありました。

それも切実な。あまりにも切実な祈りだったので、神様がほうっておけませんでした。

時には食事もとらないで祈ったり、恥をもいとわずに求めたり、それまでに積んだ義でもって神様の前に進み出たり。

ただの「お願いします」ではなかったし、ただ声を大きくして求めただけではありません。

その心を見たときに、どうしても助けてあげたくなる、そのような切実さがありました。

今のお祈りの期間も、そのように祈れる人に神様は働かれるのだと思います。

価値あるものになるかどうかは私たちがお互いを信じるかどうかしだい

兄弟愛についての御言葉でした。

争っていないで、競争ばかりしていないでお互い仲良くしなさいと、先生はいつも言っています。

争うのはもったいないですね。これだけ大きな御言葉をもらっているのに、それを自分の周りの小さな世界にしか適応していないのはあまりにもったいないです。

こう言うのはダメかもしれませんが、たかが数千人しかいない今の摂理の中で誰が上か下かなんて何の意味もないことです。

御言葉は全世界の人、後世にまで該当するものなのに。摂理をもっと盛り上げなければならないのだから、自分の立場ばかり主張していてそれはできません。

個人の次元をあげるのは一対一の愛が大きいですが、摂理としての次元をあげるときにはお互いの愛が不可欠です。

僕はお金のことばかり考えている人なのでお金で例えると、お金は信用の塊なので、信用が上がれば価値が上がります。円もドルも証券もビットコインも同じです。コミュニティが熱心なぶん、どんどん価値が上がっていきます。

そして信用が無くなり、愛が冷めるととたんに価値が下がっていきます。

2009年に摂理は大きな試みにあい、お互いの不信感が募っていくなかで先生は「このままでは摂理が破綻してしまう」とおっしゃいました。世界では時を同じくして信用不安が起こり、100年に1度といわれるほどの金融危機に陥って、あらゆるものの価値が暴落しました。

摂理として価値が上がるか下がるかは、兄弟愛によるところが大きいです。

御言葉に価値がどれくらいあるか、先生はこの世にない単位でその大きさを表しますが、それが実現するかどうかは、どれだけ兄弟愛が大きくなるか、盛り上がっているかによります。

「和睦」が発表されてから一年以上たちました。先生が出て来られるときにはそれを実践している姿を見せたいですね。

良い感情が良い実を実らせ、悪い感情は悪い身を結ぶ

感情のままに接するなといいました。

感情をうまくコントロールしなければなりません。

よく使えば良い物を得、悪く使えば悪いものを得ます。

昨日の箴言では「善は善のエネルギーで生み、悪は悪のエネルギーで生む」と言ったとおりです。

「今は感情の時代だ」といわれた御言葉を思い出させるないようでした。

今、世の中のいろんなものを見ても、ものを中心としてではなく「思い」「熱意」「気持ち」にフォーカスが当てられています。

物が売れる順序を見ても、今までは「いかに性能が良いか」が売れるポイントだったのに対して、今は「どういう思いで売られているか」というところに重きが置かれています。

同じものを売るのでも、ただECサイトにおいてあるものより、ユーチューバーがお勧めした方がうれるといいます。

だから「今は感情の時代だ」です。

人々が、感情に鋭利になった時代だからこそ、そういうところで差が分かれるようになります。

僕の妹も、たしか結婚指輪を買うときに「この人からなら買いたい」という人から買ったといっていました。

自分の感情をどう使うかで、得るものが変わってきます。

悪く使えば悪いものを得るようになります。良く使えば良い物を得るようになります。

ものより思いが優先される時代。

これは新しい流れのようで、歴史の中では繰り返し起こってきたことでもあります。

思いつくのは、旧約時代は「ささげもの」を持って神様の前に出ていましたが、新約時代になって「霊とまごころをもって」神様の前に出るようになったことです。

もの中心だったのが、今は魂が中心になっています。その流れが昔から今まで、続けて次元を上げて起こっています。