経緯を作ることが大事

今朝は、毎瞬間経緯を残しなさいという御言葉を伝えてもらいました。

経緯、わかりやすくいえば思い出とも言えるかもしれません。

その経緯が積み重なって、あとあとまで語り継がれると、歴史になります。

STORYが積み重なったものがHISTORYです。

だから、大きな歴史をなすにも、毎瞬間毎瞬間の小さな経緯づくりが大切です。

牧会者の方が、新しい歌が作られた経緯を話してくれました。

ある警察官の弟子が、「摂理に騙される人が多いので、気を引き締めるように歌を作ってください。」といってできた歌があるという話でした。

そうした経緯を知ると、歌もずっと意味深いものに感じられますね。

僕も歌をたくさん覚える中で、経緯といっていいかもしれない出来事をたくさん経験しています。

先生の歌を覚えるのは大変です。普通のポップミュージックとはメロディも歌詞も違うからです。

だから、なんども聞くことになるのですが、それでも覚えられないとだんだん飽きてきます。

すると、勝手に替え歌を作るようになって適当に歌うようになります。

なんども聞いてると気持ちが塞いでくるので、それを振り払うために、歌詞の節目に「ヘイ!」とか入れてみたり。

または、もとの歌詞が「最高の位置 最高傑作だ〜」というところを、「○○(兄弟の名前)は 最高傑作だ〜」に替えてしまったり。

そのようにして気を紛らわしながら、なんとか覚えているわけです。

そこで気がつきました。

「これが、御言葉が間違って解釈される原因である」と。

今までのほとんどの宗教では、時代を追うごとにもともとの意味が曲がって解釈されてしまうという現象が起こっています。

なぜそのようなことになるのか、私はよくわかっていませんでしたが、「原本を学んでもはっきり分からなくて、そのうち飽きて勝手に作って楽しんでいるのだ」ということです。

僕と神様の経緯はだいたいこんな感じです。

神様の構想通りにしてこそ神様も自分も満足

今日の御言葉では、神様の構想通りにしてこそ神様も満足し、自分も満足できるのだと言いました。

自分の考えでやったのでは、神様も満足できないし自分も満足できません。

例として、月明洞の開発の話をしていました。

先生はもともと、今のように開発しようとは考えていませんでした。

コンクリートの観客スタンドを作り、プラスチックの滝を作ろうとしていたと話していました。

滝をプラスチックで…てそれ滝じゃなくてウォータースライダー…

というツッコミが頭に浮かんできましたが、黙って御言葉を聴き続けていたところ、お金がなくてそうしようとしていたんだと言っていました。

当時の経済力を加味して考えたら、それは当たり前な判断だと思います。自分の故郷に、バレーボールコートを作って、観客が集まるようにスタンドを作って、ウォータースライダーも作る。弟子たちを連れてきて遊ぶ。十分です。

しかし、神様の構想はそうではありませんでした。もっと理想的で、でも、ずっと困難な作品を神様は望んでいました。

ウォータースライダーを作るだけなら業者に頼んでサクッとできたかもしれませんが、岩を立てる過程では何度も崩れました。でも、最後までやり遂げました。

このことを通して、自分の考えがあるうちは満足ができない、神様の構想通りにしてこそ満足ができるんだと言いました。

ただ、注釈がありました。注釈じゃなかったのかもしれませんが、この御言葉を間違って解釈しないようにするための話が、冒頭にありました。

騙される人が多いんだという話です。

私たちは「自分の考えではダメだ」という話を聞くと、自分の頭に浮かんでくる考えを無条件全部かなぐり捨ててしまうことがあります。日本人は基本的に自信がないですから。

だから誰かが「こうした方が良い」というと、ちょっと違うかなと思っても、きっと自分が間違っているんだと判断して、相手の言う通りにしてしまいます。

そういう詐欺で、日本だけで毎年数百億円も被害が出ています。

これについては、御言葉で「愚かだ」と言いました。

自分の考えをなくして、神様の構想を受けることで満足が得られます。サタンを受け入れてしまうと害を受けます。

正確に分別したいですね。

行った通りに報いる神様

以前は先生だけが頑張ってきたけど、今はあなたたちも頑張らなければならないと今朝の御言葉ではおっしゃいました。

これは、子どもの頃は親が全部面倒を見てくれるが、大人になったら自分でやらなければならないのと同じです。

子どものころは失敗しても親が頭を下げてくれる反面、賞をもらっても親が一時的に預かってしまいます。それが大人になったら、自分が行ったぶんは自分が受け、失敗したら自分で起き上がらなければなりません。

御言葉では、自分の体が行った通りに自分の霊が受けるのだと言いました。そして時がいたるとその霊の姿があらわになるのだと言います。

このことを、先生を通して感じることがあります。

先生の体は、閉じ込められています。限界がある中で働いています。

なのに、なぜか月明洞が開発されていきます。普通の監獄暮らしをしている人にはありえないことです。世界中探しても先生だけでしょう。

いずれ、先生は今までよりさらに理想的になった月明洞で御言葉を伝えることになります。

今、限界がある中で働いているその結果が将来に現れる。これは、体で行ったことが霊に現れることの象徴のように思います。

私たちも、努力の結果が思わぬ形で用意されていることに気がつくことがあります。

頑張っても頑張っても何もないように思う時もありますが、それは監獄で何かもらったところで嬉しさが半減するから今は与えられないだけで、そこを抜け出してからたくさん得られるように別のところに苦労の代価が積まれているんだということです。

言葉で話すのは難しいけどそういうことを実感しました。

神様が話したくなる人

「神様が話したくなる人」について話してくださいました。

人同士でも自分の気持ちをよく理解してくれる人にたくさん話をしたくなりますが、神様もその気持ちを深く理解してすぐに行なう人に話をしたくなるんだと言いました。

ただ、人と神様が違うのところがあります。

それは、人は自分と趣味の合う人同士で話してこそ、そこに没頭して話が盛り上がりますが、神様は全体のバランスを見ている人と話が通じるということです。

これは今日の箴言からもわかることで、箴言ではたくさん「均衡」「全体」という言葉が使われていました。

均衡が取れる生活。この体のためだけに生きるのではなくて霊のためにも生きる生活。

言葉だけでは、表現しきれないことがあるんだと言います。話している内容をあちら側からもこちら側からも見て、いろんな形象を見つけたいですね。

求めているものを得るのにも技術が必要だが管理することも技術が必要

今日の御言葉は、もらったものを失う可能性についてでした。

願っていたことを得ても、それをちゃんと管理しないとすぐに無くなってしまいます。

お金は稼ぐことが難しいですが、それより維持することの方が難しいと言われています。

もらったものが多ければ大きいほど、その管理能力も求められます。

宝くじに当たった人がすぐに元の無一文に戻ってしまうのは、管理能力を身につけていなかったからだと言われますね。

人との信用も、得るのは難しいですがそれを失わないようにすることも難しいです。

世界一の投資家ウォーレン・バフェットは「私がこの15年で積み上げてきた信頼を、15分で失うことができる」と言いました。

失うと、なかなか回復が難しいです。

先生は「失敗したら、より大きな条件を積まなければならなくなる。一度でやりなさい。」とおっしゃいます。

気をぬくと、得たものをすぐ失うこともあるんだということをわかって、今持っているものを大切にしたいですね。

体を洗わないと周りが気がつくように、悔い改めないと周りは気づく

今日は悔い改めの御言葉でした。

悔い改めというと「悔い改めよ。そうしなければ地獄に行くでしょう。」とスピーカーから流している番宣カーが東京では走っていますが、そういう怖いものではないということは、摂理の御言葉を聞いている人ならみんな知っていることです。

悔い改めは、体を洗うようなこと。

先生はそう言います。生活しているとどうしても汚れが溜まっていきます。罪も、全くない人はいません。それを洗い流すことが悔い改めです。

自分の臭いは自分では気がつかないと言いますが、そのように自分の罪がどれほどのものかはなかなか自分では気付きにくいものです。

タバコくさいとか酒くさいのは、周りのタバコを吸っていない人、酒を飲んでいない人が敏感にわかります。

そのように、罪も、犯していない人から見るとよく見えるものです。

摂理で頑張って走っている人の中にはねえ、これによく気がつく人がいるんですわ。

「なんか今日、礼拝の様子が淀んでる気がするんだけど」

ギクリ。もう困ったものです…いやいや、そこに気がつけるのは清潔に過ごしていらっしゃるからですよね。悔い改めなければなりません。

また、摂理の人でなくてもよく気づかれる方がいます。

賢者系のおじいさんおばあさんなんか特に相手の内側をよく見てますよ。いつもニコニコしてるけどいきなりズバッと本質ついたこと言ってきたりしますから。

そんな風に、なんとなくわかります。隠していても。

だから悔い改める必要があります。

鈍感な僕でさえも、職場である人のそばにいるとどうにもゾワゾワするのではじめは「勝手にゾワゾワして申し訳ない」と思っていたのですが、後でわかったのはその人には恋人が何人もいたということです。自慢していました。

言葉にしなくても勝手に漏れている情報というものがあります。綺麗にしたいですね。

神様は清さを望んでいる

今日の御言葉は、私たちが一番誘惑されやすい“異性”についての御言葉でした。

主を愛さないで異性を愛すことは罪だと、いつも先生は言っています。

その先生が異性の罪を着せられて出所がよくわからない画像や動画があがっていることに私たち摂理人はさっぱりわからないわけですが、今日はそのことではありません。

異性に下心を持つと、主を否定する心が来るのだと、今日の御言葉ではおっしゃいました。

僕も普通の男性なので異性が好きですが、たしかに異性のことを考えているときは他の考えが入ってきづらいです。

あと、これは経験がないので聞いた話と推測なのですが、風俗にいくとすごい全能感が得られるというんです。

目が開かれるということでしょうか。

だからなのか、僕も職場でどうにも自信が持てなかった時にしたこく上司に風俗に誘われたことがあります。

その上司としては自信をつけさせてやろうということだったのだと思いますが、余計なお世話だよと。

異性で自信をつけてしまうと、とうぜん神様のことなんて考えないだろうと思います。神様から力をもらおうなんて考えないと思います。主を否定しますね。

すると、「成長の祝福があってから愛の祝福がある」という順序が逆になってしまいます。

わかりやすくいえば、自信のわりに実力が伴っていないことになってしまうんです。

くだらないことを言えば、巨神兵が完成する前に蘇らせてしまい「ちっ、腐ってやがる…早すぎたんだ!」(風の谷のナウシカより)ということになって、ビームを何発か撃って溶けて死んでしまいます。

あと、異性的な人って周りから見るとわかりますよね。「ああ、この人なんかよくわかんないけど自信たっぷりだな。なんかあるな…」というのが。

人によってはすごく汚らしく感じる人もいるでしょう。今日御言葉を伝えてくださった方もそういうことに敏感な方です。

御言葉では、たくさん“清さ”について話されます。

特に「聖霊様は清いことを望む方なんだ」と言います。

異性的な考えをするだけなら人にはバレないこともありますが、そこも伝わってしまうのが神様です。外見だけではなく、内面を美しくすることが必要なんですね。

精神まで引き継ぐことが大事

イエス様という30代の1人の青年が残した言葉が、2000年も語り続けられたということはそれだけですごいことです。

ただ、2000年の時が過ぎる中で、少しずつその精神が失われていった面があるのだと、今朝の御言葉ではおっしゃっていました。

先生はよく“復活”についての認識の間違いを指摘されます。

死んだ体が生き返ると思っているクリスチャンは多いけどそうではないよと。

信仰を持つ人が少ない日本人にとってこれは当たり前のことですが、世界にはけっこういるそうですよ。

だって聖書に書いてあるんだもん。

イエス様の当時は弟子たちもわかっていたそうです。「体の復活ではない」ということが。

そういった、文字の後ろに隠されている精神をも弟子たちはイエス様と共有していたのですが、弟子から弟子へ、またその弟子から弟子へと伝えられているうちに、だんだん都合よく変わっていってしまったようです。

当時は通信手段がないですからね。ほとんど口承で伝えられていたのだから難しいことだとは思うんだけど。

でもそのせいで変な形で御言葉が残ることになってしまいました。

アメリカはキリスト教国家ですが、いつも不思議に思うのは映画を見る時です。

父が映画好きなので僕が帰省すると必ず連れて行かれるのですが、ハリウッド映画はヒーローが1人で問題を解決してしまうパターンがとても多いです。

このヒーローはメシアの比喩として登場している人物です。アメリカ映画は聖書をベースに作られているものがとても多いんですよ。

だから聖書をどう読んでいるのかが映画を見ると少しわかるのですが、たいていヒーロー1人がめっちゃ強いわりにまわりの人は力不足で、周りがトラブルを起こしたり無駄に連れ去られたりして、そこへメシアが現れて救う、という描写がほとんどです。

聖書にもそう書いてあるからです。イエス様がいきている間には、イエス様1人が活躍していて弟子たちはなんかよくわかってない様子で、特にペテロがすごいボケを連発しています。

ただ、史実としてはそのあとペテロはじめ弟子たちは聖霊を受けてものすごい働きをするんですが、ハリウッド映画にはそこまでの描写がそれほどにはないです。

そういった精神までは引き継がれていません。

映画のヒロインなんかいつも連れ去られて監禁されて衰弱するんだけどメイクはいつでもバッチリです。なんなのあれ。

メシア1人に任せとけば全てなんとかなる的な話は日本人としては「それどうなのかな」と思いますよね。「だから信仰を持つ人って弱いんだよ」と言われる原因になっているように思います。

ヒロインも頑張ったらいいですよね。「キャー助けてー」じゃなくて「オラぁ!主人公のためにこんなものぶっ壊してやらあ!」くらい言ったら良いのではないでしょうか。主人公ひくかもしれないけど。

「内面が大事」ってよく言われるけど「内面をどうしたら良いかそもそもわからない」問題がある

外側は美しくても、内側は違うと今日の御言葉でおっしゃいました。

「人は内面が大事」というと「んなこた知っとるわい!」と思うのはもちろんです。

なぜなら、2000年前から言われていることですから。

「盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭23:26-27‬

ことあるごとに言われる「人は内面が大事」という言葉ですが、なぜ言われ続けているかというと、それはもちろん“うちらの内面が全然良くなってないから”でございますね。

内面を変えるのって大変ですよ。数日ならできます。人前ならできます。お金もらえるならできます笑

でも心から「内面を変えなきゃ」て思うことがそもそも難しい。

さらに「内面をどう変えたらいいのかわからない」問題もあります。

よくさ、満員電車でおばあさんに席を譲ろうとしたら「わたしゃまだ若いよ!失礼だね!」て言われてへこんだなんて話があるじゃないですか。

自分では親切な心を持ったつもりが相手にはお節介になってしまった。

「もう席なんか譲ってヤンネ」と思うじゃないですか。

ほんとどうしたらいいのか。内面を磨くってほんと難しいんです。

いつも日曜日の御言葉には代表の聖句が付くのですが、今日の聖句の一部を抜粋しますと。

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:13-14‬

実は、その道はとてもせまくて見つけることはとても難しいことなんです。

以前の御言葉によると、「人1人がやっと通れる」くらいの幅しかないそうです。なんとなくわかる気がしますね。

私たちは、「誰もが平和を望みながら、争いが起こってしまう。」世の中に生きています。

どうしたら平和になるのか。楽しく面白く生きていけるのか。自分は何をするのが良いのか。

そうしたことは、ネットからは学べません。テレビからも学べません。友人や親、学校の先生に聞いてもすっきりした答えを得られることは稀だと思います。

これだけたくさんの情報がある現代なのに、いまだに「これだっ」て情報がないのが現代です。

だから狭い道だと言われていわれています。

わからない分野のことは研究している人に学ぶ

神様をなんとなあく信じてみたことがある人はたくさんいます。

困った時にお願い事をしてみたことがある人もいるはずです。

僕も幼稚園の時に、死んだペットの亀が生き返るようにお願い事をしたことがありました。

生き返りませんでした!!!

このように、神様って信じてみてはするものの、あんまりよくわからない存在です。

でも、だからといってなかなか学んでみようとは思えないことがあるんですよねえ。

なんか自分の中の神イメージが壊されたら嫌だし、清い心で天にまします神に祈ってる自分の姿っていけてる気がするし、神様について語ってる人ってたいていうさんくさいし一度はなしを聞いたら縛られそうだし。

でもそこであえて言いたいのは、「先生は神様のことをとてもよく知ってるよ」と言うことです。

子どものころから教会に通い続け(ただし当初は教会でお菓子がもらえるという理由で通っていたらしい)、人生のあらゆる苦難にぶつかって、聖書をたくさん読んでみて、その通りになるのか実践してみて、理解ができないあらゆる疑問について諦めず答えを探してきた人です。

どんなに控えめにいっても「僕らよりは知っている」。明け方から深夜までそのことだけに時間を使っている人ですから、他のことを学んだり遊ぶことがある僕らよりよくご存知です。

だからぼくらは「先生」と呼んで、その研究成果を毎日聞いているわけであります。