先生、御言葉を書きながら作曲を同時進行する

やっと気付いたのですが、今週の主日の御言葉は、先生が作った歌「祈りは仕事だ」と同じです。

2. 祈りは煮込むことだ
ぐつぐつ 火を通すことだ
時間かけて 熟す実のように
四十、七十、百十日 祈り熟させることだ
神は喜ばれ 答えられる
祈りは対話だ 対話をして解くことだ
落胆せず信じ 最後まで祈りだ

御言葉が歌になり、歌が御言葉となって伝えられるのが先生流です。

きっと、御言葉を書きながら曲も作っていたのでしょう。

すごい時間の使い方ですね。無駄がなさすぎです。

僕たちもそのように時間を使いたいですね。

「仕事の時間は仕事だけ」とか「食事の時間は食事だけ」ではなく、「仕事をしながら主と対話」すれば、ただの仕事がもっと有意義な時間になります。

仕事を通してわかったことがあればそれを証に使えるし、食事をしながら主と対話をすれば経緯ができます。

いつも対話だと仰いました。

先生は「夢でも魂が活動する」と言います。睡眠をただの休息ととらえません。

祈り、つまり対話をすることは時間を有効に使うことでもあるのだと思いました。

祈りの必要性と、祈ってばかりいてはいけないことについて

今日の御言葉は、「祈りとは何か」「祈りはどうして必要か」について話してくださいました。

僕は「このタイミングで来たか!」と思いました。

なぜなら、つい先日の明け方の箴言で「病気になったら『祈ってばかりいないで』病院にも行って、定期的に健康診断も受けなさい。」とおっしゃっていたからです。

先生が3年祈っても病気が治らなかった話もされましたね。

そうした話を聞いたら、私たちは「そりゃそうだな。…ん?じゃあなんで祈ったりする必要あるの?」と思うじゃないですか。

ちっちっちっ、そんな私たちの気持ちなんかお見通しなんだぜ先生は。

今日はたくさん祈りの必要性について話してくださいました。

まずは、「祈れば考えが変わる」ということですね。

もう僕の体験レベルでしか話せませんが、お祈りは自分をチューンナップするような役割があります。

これはやってみないとわからない。これ以上の表現ができません。

判断力にキレが出て、余計な考えが入ってこなくなります。

周りから見ても「なんかオーラ出てるな」と感じます。

僕が顕著に感じるのは、お祈りをたくさんできてる時は「飲み会に執拗に誘われない。」

これ統計とったらすごく面白い結果出ると思うんだけど。

祈らないとやる気が出ません。その結果、自分には不利益なこと、不健康なことに対してあまり嫌気がなくなって、流されます。

そしたら、病気になりますね。

病気になったら病院に行かなくてはいけない。

自分の不注意で不健康を招いた場合、神様の奇跡を待つよりやっぱ病院に行った方が良いです。

祈りは対話だ

「祈りは対話だ」とも仰いました。恋人と対話することです。

僕は人と話すのがあんま得意ではないので、ずっと祈ってるというか考え事をしています。

そうしていて思うことは、祈っていることについてはよく気がつくけど、あまり熱心に祈っていないことについてはてんで感覚が鈍いということです。

人との対話でも「この人に会うといつもこういう話になる。」ということがありますよね。

神様と人間も同じです。

大きく見れば、大昔は神様と人間との関係性が遠かったから、それなりの対話しかできませんでした。

先生は、その関係性を近くして実践した人の1人ですね。

先生と神様は近しくなりましたが、みんながみんな近いわけではありません。

今の時代は神様と近い時代なんだけど、一人一人で見たらその関係性は多種多様で、対話の内容も様々です。

健康に関しても、祈りで深い対話をしている人もいれば、そうでない人もいるんじゃないでしょうか。

対話してなかったら、その分野に関しては気がつきません。

どんなに神様からサインを送ったところで、本人が気づかなければしょうがありません。

先生が「病院に行きなさい」というのは、裏を返せば「脳が固まっていて、祈りの焦点が合っていない。」ということなのかもしれませんね。推測っすよ、推測。

御言葉では、「教会のことについても祈りなさい。1人でもいれば、狙っているサタンが消える。」と仰いました。私たちの体も1つの聖殿なので、わかって管理をしていきたいですね。

重要なのは、「お湯が煮立って肉を茹でるように」熱く祈ることです。

長くなりましたのでこのへんで終わりにします。

じゃ、そろそろ1時祈りなんで。

「変化は見えないように起こる」が虫を通してわかる

今朝もいつものように2つの御言葉を聞きました。どちらもセミを通して話してくださいました。

セミっていろんな教訓を得られる生き物ですよね。

長い間を土の中で暮らして空を飛び回る姿とか、懸命に鳴いて求愛行動をするところとか。

幼虫が成虫に変化する姿もとても神秘的ですね。動画を撮られたことがあるかたもいるかもしれません。

僕は子供のころにカブトムシを飼っていましたが、イモムシから変化する様子はとても不思議でした。

イモムシ君はブヨブヨしてます。触るとただブヨブヨしてて、「やめてくれ」と言うかのように体をブニブニ動かすだけの、なんだかよくわからない存在です。

はじめはすごく小さくて可愛いのですが、どんどん大きくなってきてはっきり言ってキモいです。微妙に毛が生えてるし。

このまま大きくなると相当キモいんですけど、と思うところでサナギになります。

セミもチョウチョもそうなのですが、成虫になる直前って、外殻は変化がないように見えて、中は一度ドロドロに溶けるそうです。

一度ドロドロになってから、成虫の形に再形成されます。

そして形ができたら、殻を破って外に出てくるんですね。

ただのブヨブヨが、カブトムシは立派なツノを持つ力持ちになり、セミは飛び回り夏の訪れを知らせ、チョウは美しい模様を見せながら花から花へ花粉を運ぶ使命を果たします。

摂理人だったらここで「葬りなさい」を歌うしかないっしょ。

見た目では変化がないように思う時こそ、大きく変わっていることがあります。

そういう変化は本人はとても大変な思いをしているものです。

だから周りはそうした変化に敏感に気がついて接する必要があるし、大変な思いをしている本人はそれが自分が変わっている過程であるとわかって、あきらめないで最後までその変化をやり遂げることですね。

その先は違った世界になります。

価値を知っている人が多くを得て、知らないと得られない

今朝の御言葉では、「貴重さをわかる人が価値あるものを多く得る」と仰いました。

何が貴重で何が貴重でないのかを分別できる。そのような知恵のある人が得るものを多く得ることができます。

先生はよく陶磁器の話をされます。

骨董品の世界は、貴重さを知っている人と知らない人が分かれている世界だからです。

貴重さをわからない人は陶磁器を安く売ってしまい、わかる人がそれを買って博物館に飾って成功する、という話です。

日本でも「なんでも鑑定団」でおなじみですね。

素人目には貴重さがわからないものが、わかる人にはとても価値のあるものであることがあります。

世の中、値札がついてるものなんてほんの一部ですから、価値のあるものとないものを分別できる知恵が必要ですね。

御言葉に続く箴言では、健康について話されました。

「自分の健康」なんて特に、ふだんはあまり気にかけないけどめちゃくちゃ貴重なものです。

昔から「体が資本」と言われています。この体を貴重に思って使う人はたくさんのものを得て生きているし、むやみに使ったり怠ける人は得るものがありません。

先生は、健康管理のために運動や健康診断の話をよくします。

「信じれば治る」という類の話はしません。

「具合が悪ければ病院にも生きなさい」と言います。

信仰をもっていると、「祈れば治る」「信仰が良いから神様が病気にならないようにしてくれる」という思いをもってしまうことがありますが、そうした奇跡はなかなか起こるものではないことを話されました。

僕も思い込みをもつことがあります。

最近、歯医者に行ってないんです。

なのに、「たぶん大丈夫」という気持ちがあります。

はっきりいうが、根拠はない。

なぜ大丈夫だと思うのかというと、現実を知りたくないんですよね。

歯医者に行って、医者に「うわー!なんでこんなになるまで放っておいたの。これは大工事だ。10万円はかかるよ。」といったようなことを言われたら、と考えると少し怖い。

そうした現実から逃げるために「大丈夫だ」と思い込んだり「神様が守ってくれる」といった理由をつけているとしたら、間違いですよね。

たぶん神様は奇跡を起こしてくれないでしょう笑

信仰はそういうことのためにあるのではなくて、神様と愛を結ぶためにあるものですね。

共にすることが完成したこと

今朝は「なぜ主と共にしなければならないのか」について話してくださいました。

それは、愛してるからだよ。

この世は神様が作った世界で、愛の世界だからです。

1人だけでは片思いになってしまい、興奮はあっても愛はないのだと仰いました。

共にしてこそ「完成だ」といえます。

バイブルスタディにも「二本のオリブ」の話がありますし、聖書にも「すべてのものにつれあいがある」と書いてあります。

御言葉に続く箴言でも「対話」について詳しく話されました。

昨日の箴言では「万物とはフィーリングで通じる」とおっしゃったのですが、今日は具体的にどんなふうに通じているのか教えてくださいました。

先生は万物も恋人のように大事にするのだと仰いましたが、対話の内容からそのことを感じることができます。

ちなみに、旧約聖書の中での万物との対話は以下のようになってます。

ろばは主の使を見てバラムの下に伏した。そこでバラムは怒りを発し、つえでろばを打った。 すると、主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った、「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたは三度もわたしを打ったのです」。 バラムは、ろばに言った、「お前がわたしを侮ったからだ。わたしの手につるぎがあれば、いま、お前を殺してしまうのだが」。
‭‭民数記‬ ‭22:27-29‬

時代がいかにも「主人と僕」って感じですね。先生の対話とは大きく違います。

今日の御言葉を聞いて、僕はなんでも1人でやってしまうのが好きなのですが、「俺ぜんぜん対話たりてない…」ということに気づきました。

自分の考えはまず置いて、相手の立場になる。

自己主観を治しなさいと、今朝の御言葉では仰いました。

自己主観といえば!僕は日曜日に自己主観の強い人に絡まれたんですけどね!っていつまでその話しとんねん!!

今の自分に必要な御言葉がたくさん与えられていて感謝です。

今日の御言葉は、明け方のお祈りに向かう時、マンションのエレベーターから降りた時に浮かんできた聖句から伝えられました。

明け方ってシーンとしてるから、ふっとアイデアが浮かんでくることがあるんですよね。

「その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。」

ルカによる福音書‬ ‭21:23-24

終末に関する聖句ですね。ちなみに終末とは転換期であると、先生は教えています。

この終末には、身重の女と乳飲み子をもつ女は不幸だと聖書には書かれています。

文字通りの「赤ちゃんがお腹にいる女性」という意味ではなく、自己主観が強い人のことを指しているのだと今日の御言葉では話されました。

頭の中にたくさんの自分の好きな考え、古い考えが入っていると目的地まで行けないよ、という話です。

古いものはどんどん捨てていかなくては行けませんね。

先生はよく「生きている神様」ということをおっしゃるのですが、この「生きている」っていうのは「常に新しくなる」ということでもあります。

この体も常に新陳代謝が起こっているから生きているといえます。代謝が鈍くなったら老けるし、止まったら死にます。

これは体だけのことではなくて、考えもそうなのだと、私は御言葉を聴きながら思いました。

自分の頭の中も、いろいろ詰まっている身重な頭になるのではなくて、いつもリフレッシュした状態であるのが健康的ですね。

そういう意味では、先生は本当に自分がない方です。

今日の御言葉の後に先生の箴言を伝えてくださいましたが、その中に万物と通じる方法について話されている箇所がありました。

<万物との対話>は、自分が「万物の立場」になって「そのフィーリング」を話す時、対話になる。万物が人間のように話すのではない。万物の立場を分かって自分が「通訳」することが「万物との対話」だ。

「万物の立場になって」というのが先生の性格を端的に表しているなと思いました。

常に相手の立場、神様の立場で考えて行動されるのが先生です。

普通に考えても、自分の立場から見える世界って狭いです。

その狭い世界に閉じ込められていることは、自分にとっても、神様から見ても嬉しいことではありません。

そうした自己主観を捨てて、より知恵深く生きて生きたいですね。

「推測」で決めつける前に「確認」が必要だ

今日の御言葉では「推測ではなく実体の生を生きなさい」と仰いました。

きっかけはちょっとしたトラブルです。御言葉を伝えてくださった方の乗っている車が他の車と軽い事故を起こしました。

そこで運転者同士の話し合いになったのですが、お互い「向こうが悪い」となってしまいました。

「今は感情の時代だ」と御言葉でも仰いましたが、悪い感情に陥ると冷静に物事が見られなくなって、推測で決めつけてしまいますね。

そのように、先生を迎えることについても推測で考えているから、そうじゃなくて御言葉どおり「今、共に生きなさい」と仰いました。

この御言葉を聞いて、また日曜日にあったトラブルを思い出してしまいました。日曜日に礼拝に向かう途中で心の姿勢の悪い人に絡まれたんです。

「てめえ今睨んだだろ」という言いがかりでした。

確かに、その日は新しい歌をたくさん歌う予定だったので、歌詞を忘れまいと反復しているうちに目つきが悪くなっていたかもしれません。土曜日から100回くらい聞いていて頭がぐわんぐわんしてました。

それが睨んだという推測で決めつけられたのはちょっとキツかったな。

主管が強い人だったので、話しても「いいや、睨んだ」の一点張りです。

その場は謝って、相手の長所を褒めたら機嫌がよくなりました。もちろん向こうは謝らないよ。うーん、キツい。もう思い出したくないんだけど。

読者の方は「お前の個人的な事情なんかどうでも良い」と思うかもしれません。しかし今朝、民族的な規模で御言葉を実感せざるを得ない出来事が起こりました。

北朝鮮が弾道ミサイルを発射 日本上空を通過 /朝日新聞デジタル

今朝6時の出来事です。ブログでお世話になっている方から教えてもらいました。

北朝鮮は以前からかなり“推測で”世界を決めつけて、憎み、ミサイルを発射しつづています。

これほんとにどうしたら良いのよ。

北朝鮮の思い込みの強さはかなり達人級に達しています。

普段は「悪であるアメリカ、日本、韓国に正義の鉄槌を下す。火の海になる。」といった脅しをして、諸外国から有利な条件を引き出そうとするじゃないですか。

それにアメリカや韓国が反応して「北朝鮮に対してはあらゆる選択肢を考慮に入れる。」といった武力をもほのめかすコメントを発します。

すると北朝鮮は、「我々はアメリカに脅されている。アメリカは恐怖で他国をおさめようとする最悪な国だ。」といった言い方をするんです。

うわー!っていうしかないよこんなの。

なんちゅう被害妄想だよ。北朝鮮はどうあっても「自国は悪くない。他の国が悪い。」というふうにロジックをもっていってしまうんです。

アメリカは「あのレトリックを封じなければならない」といっています。

韓国には、先生という「御言葉の達人」がいますが、北朝鮮には「言い訳の達人」がいますね。

韓民族って極と極だな。

推測、ダメ絶対。

いつも御言葉で行っているように「確認」が必要です。

良いことは後から来ることがある。最後まで喜んで主を賛美することだ

賛美について御言葉を伝えてくださいました。

日曜日だけではなくて、日常で神様を賛美しなければなりませんね。

神様を褒め称える人は、願うことが叶うのだという話もされました。

悔しい思いをした人もその10倍の祝福があるという話もありました。

ちょうど昨日悔しい思いをしたので、僕にとってはここが強調されて聞こえてきましたww

でも、すぐにポンと良いことがあるかというと、いつもそういう時ばかりではありません。

僕も昨日、心の姿勢の悪い変な人に絡まれたけど、今日もまだ若干気分が悪いままです。何か良いことがあるわけでもなく、いつもどおりの月曜日がはじまっています。

でも、最後まで神様を褒め称えなければならないと御言葉ではおっしゃっていました。

最後まで行けばもっと良いものが与えられる、という話です。

先生のエピソードとしてぶどうの話がありました。

ぶどうを買って、店に置きわすれてしまった。でも、そのおかげで店に戻った時にもっと良いぶどうを手に入れることができたのだと。

わかりやすいたとえですね。正直自分にもそんなことがあるのか、自分ではさっぱりわかりません。そのことばかり考えていても気持ちがやきもきするだけなので、あったらいいなくらいの気持ちで、やることをやっていこうと思っています。

自分にとっての祝福は、どこにあるか自分ではわからないことが多いです。

箴言では、自分とマッチする連れ合いを見つけるのはとても難しいのだと仰いました。

自分と似たものではなく、違ったものを立てて連れ合いとしてくださるのが神様の祝福です。バイブルスタディで習った通りです。

皆様にとっての最良の祝福が得られますように。

体の姿勢と心の姿勢

今日の御言葉は体の姿勢から信仰の姿勢の話をしてくださいました。

姿勢については私より詳しい方がたくさんいそうですね。ヨガとかウオーキングの話が出てたくらいだから。

私は姿勢が悪いです。人にもよく言われるので、自分なりに工夫はしています。

まず、姿勢が悪いことって自分ではなかなか気がつきません。

これは心の姿勢もそうですね。

今朝、礼拝に向かう時に変な人に絡まれましたww

こちらが急いでるのに引き止めるから、少し話をしました。思ったのは(話してもわからなそうな人だ)ということです。

自分で何を言ってるのかわかってない人だったので、とりあえず褒められそうなところを褒めてやりました。そうしたら少し喜んだ様子だったので、そのすきに去りました。

おかげて今日は歌手をやりましたがキツかったです。歌い切るのが精一杯でした。しかも終わった後で「もう少し笑顔で」とか指摘されるし。最近心情をわかって接してくれる人がいません。

でも先生はそれよりもっと大変な人と毎日一緒にいるわけだから。

なんの話だったか、そう、姿勢は自分では気がつかないという話です。

僕も鏡を見てはじめて「うわっ、こんな格好で歩いていたのか。きもっ」と自覚します。

それで僕は全面鏡を買いました。また、週に何度か大きな鏡のあるスタジオで自分の姿を見ます。

ジムで運動しながら鏡を見ることもあれば、音楽スタジオを借りて発声練習をしながら鏡を見ることもあります。

少し間が空くとすぐ姿勢が悪くなります。

日中は仕事で一日中パソコンに向かっているからです。

姿勢を根本的に変えるためには生活環境を変えないといけないことを感じます。

また、姿勢を直すのにわりと役に立ったのが「枕」です。

今まで枕が悪かったのか、立っている時に頭が少し前に出てしまう形になっていたのですが、思い切って枕なしにしてみたら、ちょっと緩和されました。

こんなふうに、信仰の姿勢もわりと少しのことで改善することが多いのかもしれません。

日本は人に頭を下げる文化があるから、なかなか姿勢を良くするのは難しいかもしれません。

「実るほど、こうべを下げる稲穂かな」ということわざもあります。

しかし、御言葉では「頭を下げるのではなくて心の姿勢を下げなさい」と仰いました。

自負心は持ちながら、柔和でへりくだった姿勢というのが理想ですね。

御言葉の価値をわかることが全体の利益になる

いつも聞いている御言葉の大切さについて話してくださいました。

万物もそうですが、御言葉こそよく見ればいろいろな発見があります。

万物の秘密を発見した人で教科書に名前が載っている人は多いです。少しずつ明らかになりながら文明は発達しています。

御言葉もそうです。大きな封印をまず先生が解かれたから摂理が始まったし、今まで続けて大きくなってきました。

私たちに恩恵があるのは、こうした先生の実践があるからです。私たちに祝福があったとして、そこに先生が関わっていないことはありません。先生の条件があるから、自分の努力だけではあり得ない大きな祝福がここではあります。

家の電気がつくのが過去に誰かさんの条件があったように、祝福も主の条件があったからです。

私たちも、普段聞いている御言葉に隠されている神様の心情を正しくみつけることができたら、それは全体の利益になることです。