師から教わったら生活の中で応用するのが教わる側の責任分担

今日の『全世界の真の師は誰か。』というタイトルで教えてくださいました。

師と呼ばれるいろんな人が出てきましたね。

孔子、釈迦、ソクラテス。僕は学生の時代は哲学をかじってましたので、釈迦とソクラテスは少しだけ勉強しました。

学びが多かったし考えが変えられることも多かったですが、それでも御言葉と違うところは、教えて続けてくれるというところですね。

今の自分の状況に合わせた話が聞けると言うのは、やはり御言葉からしかもらえないものでした。

韓国では師の日が近いということで師は誰かという御言葉が出ています。

師匠は教えることが使命です。私たちは教わる事が責任分担のわけですけれども、ただ教わるだけではいけないということを、御言葉からも、またその後の指導者の話からも学ぶことができました。

今私たちがすべきことをていうのは、ただ教わって満足すると言うことではないと言うことです。

教わる側の姿勢として、教えてもらったこと生活で応用をして成果を出す、それは教えてくれた人への最大の恩返しになりますね。学校で授業を受けてテストで良い点を取ったら、それが先生の功績になります。良い学校に進学したら先生も教えた甲斐があります。

そのようなわけで、御言葉通り、行って天の前に功績を立てたいですね。

ついて行く人がどうするかで運命が変わるということの具体的事例

必要性があってプログラミングを学び始めています。

プログラミング言語には多分いろんな種類があります。

c、Java、swift、ruby、python…

それぞれ特徴があります。例えばiPhoneアプリを作るならswiftだと言われています。

また、pythonというプログラミング言語は機械学習に強いと言われています。

プログラミングを始めたとき、なぜPythonは機械学習に強いのか、疑問に思いました。

調べてみたんですけど、わかりませんでした。

他の言語と比べて機械学習に強いと思える要素がないように思えたのです。

続けて調べてみた結果、あることがわかりました。

pythonが好きな人を「pythonist」と呼ぶそうですが、彼らがpythonのために機械学習のライブラリといわれる便利な機能をたくさん作ったのだそうです。

Pythonがもともと機械学習に強かったわけではなく、pythonのことが好きでついて行った人たちが、pythonのために機械学習についてのライブラリをたくさん用意して、みんなが使えるようにした。

そのことが「Pythonが機械学習に強い」と言われるようになった理由だったんです。

これはほんとに深い真理だと言うことを感じました。

それを好きな人、ついて行く人がどうするかでそのものの運命が変わるということだし、また御言葉で言われる「初めは微弱だが後では壮大だ」の意味、このことがどういう意味なのかを考えさせられました。

特別なことはまるで当たり前なことのように起こる

最近ブログを書いてなくて、久しぶりにブログを書きたいと思います。

ついさっき喫茶店に行ったんですが、メンバーがたくさんいらっしゃいました。ぱっと見7、8人いらっしゃいました。

みんな女性で、女子会中で、御言葉を熱く伝えているようだったので(中には御言葉と関係ない話をしている女子もいました)、僕は邪魔しないように喫茶店の隅っこに引っこんで1人でおもしろ動画を見てクスクス笑っていました。

ところで、今日は聖餐式でした。キリストが十字架にかかったことを記念する日です。

時代が邪悪で、福音をいくら伝えても人々が受けいれなくて、イエス様は十字架にかかることになりました。

一番最後に弟子たちと食事をしたのが『最後の晩餐』と呼ばれる出来事ですが、これは絵画を見てもわかるようにで、とても重要で、厳かで、特別な出来事でした。

しかし、当時は特別感はなかったんだろうなということを感じました。

12人の弟子を集めてパンとぶどう酒を食べたという出来事です。豪勢な食事をしたわけではないと言っていましたね。

後になって、その食事が最後だったんだということを弟子たちにわかるようになります。

イエス様が十字架にかけられたからです。

『最後の晩餐』というのは後からつけられた名前ですね。

みんなで集まってイエス様と一緒に食べた食事、それが最後だった。

なんでもそうですが、特別な事は私たちが思ってるように特別な雰囲気の中で起こるのではなくて、ごく自然に起こるものだということを感じました。

このようなことを、私たちは2015年3月にも体験したし、今年も体験しました。

「生活の中で主を迎える」ということを改めて考えさせられました。

SNSを使いこなすキリスト教会があるというので見てみた

「上馬キリスト教会のツイッターアカウントがすごい」ということが教会内で話題になっています。

教会で話題に上がり始めたのはずいぶん前のことなのですが、僕は昨日になってようやくそのアカウントを見てみました。

見た感想を一言で言うと、ほんとにすごい(語彙)

パッと見ですごさがわかったのは、タグの付け方です。

話題になっていることから聖書につなげるのがうまい。

そこで、今話題になっていることを調べてみました。

「#あなたに圧倒的に足りないもの」
これ、いけるじゃん。

タグつけて「あなたに足りないものは、キリストの愛です。」とかやればいいじゃん(怪しさ満点)

とりあえずこれステキ。

昨日は先生の誕生日でした。

昨日、先生の誕生日でした。

華やかなセレモニーが行われました。セレモニーは韓国で行われましたが、日本でもあのくらいのレベルのものがいつかやれたらと思いましたね。

それと同時に、考えさせられることも多い日でした。

なぜなら、僕が思っていたような誕生日とは違ったからです。メンバーの多くがそう思っていただろうし、チョウンさんが御言葉の中でそう話していました。

何か、私たちからやらなきゃいけないことがある気がします。

それはともかく、楽しい日でした。教会でも芸術祭をやって、摂理は平和だなあと思いました。

政治は森友問題で騒がしくなっています。

毎日集会が開かれていることを、ニュースを通して知ることができます。

こうしたニュースを見ると、さらに「摂理にいて良かった」と思います。

もし、僕が摂理にいなくて3/16に先生の誕生祝いについてまったく知らず、暗いニュースだけを見ていたとしたら、ウツになったろうな。

いつでも「今が一番良い」といわれるわけを考えてみる

「今が黄金期だ」と言いました。

先生は「今が黄金期だ」とよく言います。

現実を見るととても楽な状況ではないときでも「今が黄金期だ」と言います。

それは、環境が悪い時でも見方を変えれば得るものがたくさんあるということでもあるし、また、将来から今を見た場合、今どうするかで将来が左右されるから「今が黄金期だ」ということもできます。

言い方を変えると、将来「あのとき頑張っておいてよかったな。あの時にやっておいたから今の自分がある。あの時は黄金期だった。」と思うその考えを、今しゃべっちゃっているということです。

将来にきっとそう思うはずのことを今話しているということ。

そういう、時間を超えたものの見方を先生がよくしているということを、御言葉を聞いていると感じることができます。

神様はアルパでありオメガです。

はじめでもあり、おわりでもある。

現在のことを話していながら、将来のことを話していることもあります。

100年後に、この「今が黄金期だ」という言葉を聞く人がいるなら、「あの時はたしかに良い時だった」と思って2018年を懐かしく思い出すだろうし、また「今がまた良い時だ、頑張ろう」とも思って2118年の世界を新しく作っていくはずです。

神様はアルパからオメガまで、みんなに働きかけてその御心を成していきます。

「自分をどう作るか」

「自分をどう作るか」について話してもらいました。

目は目の役割をして耳の役割はしないし、耳は耳の役割をして目の役割はしないと言いました。

自分がどういう人生を送るかって、わりと自由に決められそうで、いつまでもそうではないと感じます。

どの専攻に進むかもそうだし、どんな職業に就くかもそうです。

専攻を決めるのは一生で一回のことが多いし、職業も何回も変えるわけにはいかない。

配偶者もそうですね。

若いころはなんでも選び放題な気がしますが、結局一つを選んでそれを大事に伸ばしていかなきゃいけないということを、少し大人になった最近は思います。

先生は40代からサッカーを始めたし、これからも新しいことにチャレンジするんだろうから自分で限界を決めてはいけないと思いますが、その先生も中心はまったく変わりません。

風邪で礼拝を休んだら、先生の状況が少しわかった

今日は風邪をひいたので聖殿に行くのはやめました。

動けはするけれど、周りにうつさないように。たくさんの人がいますから。

日曜日に聖殿に行かずにいて、わかったことがありました。

今まで、毎週当たり前のように礼拝を捧げていて実感が湧かなかったのですが、先生は、この10年間、1度もみんなで集まっての礼拝どころか一切のイベントに顔を出していないということです。

そりゃそうなんだけど、今まであまり考えなかったんですよね。

自分で経験してみて、より実感をもてるようになりました。

そして、今までの自分が、「いかに礼拝に参加するか」を考えて動いていたことが恥ずかしくなりました。

110日のお祈りの条件についてもそうです。時間通りに聖殿に行くことをかなり意識した生活習慣にしていて、それはそれで大変だったんだけど、そこに集中しすぎて大事なことがなおざりになっていたかもしれない。

もちろん先生は「社外人は日曜、水曜の礼拝に行きなさい。命の御言葉が伝えられるから。」といっていたし、礼拝の場に神様はいるわけだし、いつまでも先生が1人で礼拝を捧げているわけではないからその準備も必要なわけですが。

少し別の角度からものごとを見られるようになった日曜日でした。

聖殿にはいかなかったんだけど、ずっと家にいるのはキツイです。精神的に。

だから外に出ました。そしてブログ書いてる。

今を見るより将来を見通せるか

神様は、この歴史の中で無駄なことはなかったと言いました。

成功者は「今までやってきたことで無駄なことは一つもなかった。」とよく言います。

最後まで行くと、それまでの過程の意味がわかるようです。

逆にいうと、過程ではわからないこともあります。

箴言でも「<月明洞開発前>には「月明洞地域の形と形象を見いだせた人」が地球世界に誰もいなかった。開発してから分かった。」という話をされています。

だから最後まで行きたいです。

また、「<人>も「頭角をあらわす前に見る目のある人」は「悟った人」だ。」とも言います。今みると大したことがないように思える人でも、あとで大きくなる人がいます。

旧約聖書で、兄弟にいじめられた末にエジプトの奴隷として売られてしまうヨセフは、後にエジプトの総理大臣になります。その時、ヨセフの兄弟たちは飢饉に困り、ヨセフの元へ行って頭を下げます。

ヨセフは彼らの心がちゃんと直ったのかを試したあと、兄弟たちを迎えます。

このように、後で大きくなる人がいます。ただし、もちろん大きくならない人もいます。騙す人もいます。

その見分け方が難しいです。

知っている人が勝つ

今の時代は「知っている人が勝つ」と言われます。

昔は腕力が強い人が勝ちましたが、今は違います。

頭の中に入っていること、考えていることで左右されます。

御言葉でも「考えが命だ」と言います。

同じ時代に生きていながら、人の考えは様々で、昔の王政のような考え方をしている人もいるし、帝国主義的な考え方をしている人もいます。

今の時代がどういう時代なのか、それを知っている人がその時代に合わせて生きて成功することができます。