礼拝を捧げる姿勢

礼拝は愛で捧げるんだといいました。

義務ではなく、愛が必要です。

会社で働くときは会社と契約を結びます。「頑張って働いてね。その代わりこれだけのお給料をあげるね。」という約束です。

愛する関係にあっては、そういう契約も多少はありますが、ほとんどがお互いの愛で決まります。

本当は、礼拝というのは愛で捧げるものです。

「礼拝に行ったから何かご利益があるかも」となってしまっていますが。

自分から行う

万物から神様の法則一つを見つけて名前を残した人や、聖書の一節から歴史をなした人がいます。

今日の摂理の御言葉は「御言葉を自分のものにしなさい」といいましたが、御言葉をわずかでも自分のものにし、自分から行えたらそれはものすごいことです。

あまりにもすごいので、はじめは誰にも理解されません。

今週の主日には、ダニエル書10章を引用して「自分の味方はミカエルだけだと思いなさい。」といっていましたが、この御言葉は、そういう人に向けて伝えられています。

記録の重要性

記録の重要性について教えてくれました。

覚えても忘れてしまうのが人間です。

だからこそ、記録をして、いつも見返す必要があります。

繰り返すうちに、次第に記憶に定着していくと言われていますね。

御言葉ではないですが、自分の目標はいつも目にした方がいいと言われています。

そうすると実際に叶うといいます。

つらい時にいかにその先の目的を忘れずにいられるか

人生にはつらいときもあればよいときもあります。

つらいときはその後に来る良いときの準備をする期間だし、良いときはそのあとにあるよくないときに備える期間です。

つらいときに十分に準備ができていた人は、そのあとの良いときにもチャンスをつかむことができます。

十分に準備ができていないと、良いときにチャンスをつかむことができません。

チャンスは大きな波が来るようにきます。

いつくるか、というタイミングは神様にしかわかりません。

ですが、それまでに海に慣れて、なんどか波に乗る経験をしている人は、大きな波も乗りこなすことができます。

しかし、良い波が来たときにはじめて波に乗ろうとする人は、その波に飲まれてしまうかもしれません。

そうなってしまっては、せっかくのチャンスも災いになってしまいます。

人生にはつらいときもあればよいときもあります。

良いときがきたときに、本当に「よかった。」と思うためには、つらいときに、いかにその先にある目的を忘れないでいられるかが重要になります。

そういう意味では、先生はこの10年間をひたすら感謝して過ごしてきました。先生ほど艱難期の時間の使い方がうまく、目的を忘れない意志の強さを持った人はいないと思います。

つらいときを「ただの無意味な時間」ととらえるのではなく、「今しかできないことがある」という認識ですごすと、そのときも、またそのあとも有意義になります。

つらい時こそ感謝した方がよい。

人生にはよい時も悪い時もあります。

土が炉で焼かれて貴重な器ができるように、艱難を乗り越えてこそ深みのある人格ができるようなところが人生にはあります。

だから艱難期は考え方によってはチャンスだとも言えます。

しかし、艱難は嫌です。それを忍耐するには感謝が必要で、感謝できないと炉から避けて十分に磨かれないまま表に出ることになったり、または焼かれすぎて燃えカスになってしまうこともあります。

だからどんな時でも感謝です。

とわかっていてもやっぱ艱難は嫌です。

そこが人間の考えと神様の考えの違うところです。

つらい時の乗り越え方

つらい時ほど、ネガティブな考えが浮かんでくることが多いです。

しかし、摂理の御言葉では「どんなときでも肯定的に考えなさい」といいます。

その言葉を先生は実践していて、どんなにつらいときでも不平不満を口にしません。

人生にはいろいろなときがあって、良いときも悪いときもあります。

それは、昼があって夜があるようなもので、誰にでも起こることです。

私たちが昼のうちに夜の準備をし、夜のうちに昼の準備をするように、つらいときはその後にくる良いときの準備をする期間です。

だから、考えようによっては「つらいときにがんばって、良いときに備えよう」と肯定的にとらえることができます。

しかし、つらいときにがんばることは簡単ではありません。つらいときに十分に努力してこそあとにくる良いときをもっと飛躍的に良くすることができますが、それが一番難しいことです。

つらいときにがんばる力は、神様からしか来ません。助けてくれる人はいないし、もっているものもないし、才能もない。

なにもないときに自分を支えてくれるのは神様しかいません。

神様から力をもらうことで、苦しい時期を乗り越えることができます。

その中で自分が磨かれます。ざらざらした石が濁流に流されているうちに角が取れて丸くなるように。または、土が炉の中で熱されて高価な焼き物になるように。

十分に磨かれた石、また完成された焼き物は、貴重に扱われます。

これが、人生の昼と夜の関係です。

ヨーロッパでは「見た目の美」以外にも「経緯の美」を重視する。

実家に帰った時、すでに家族が集まっていました。

みんな結婚したりだなんだで実家から離れているので、車で来るんです。

数台、家の前に止められていました。

日産、トヨタ、マツダ。

マツダの車がフォルムが美しいと思いました。

マツダというメーカーは、他のメーカーがシェア争いにしのぎを削っている中、そこには参加せずにひたすら「独自の美しさ」みたいなものを極めようとしているところがあります。

「美しいとは何か」という哲学を探求することに余念がなくて、「余計なものをどんどん削ぎ落としていってその先に現れる『あっ』という驚きを見つけようとしているのだ」と聞いたことがあります。

「美しい」ってなんでしょうね。

今朝聞いた御言葉では「行いを美しくしなさい」と言いました。

マツダの車のような「美しさ」を行いで表現するとしたら、「姿勢を正して歩く」とか、「丁寧な挨拶をする」とかが思いつきますがどうでしょうか。

それももちろん大事ですが、御言葉では「霊の美しさ」について触れています。

話を車に戻すと、“美しさの本場”ヨーロッパでは、車メーカーはブランディングするにあたって、そのメーカーの「歴史」を大事にするのだといいます。

はじめにどういう思いで車を作り始めたのか、今それをどう受け継いでいるのか、どのように変わってきたのか。

そうした経緯の一つ一つを語ることで、そのメーカーのブランディング、美しさを形作っているそうです。

ここにヒントを得るなら、「行いの美しさ」は「経緯をたくさん作れるか」にかかっているように見えますね。

見た目の美しさは限界があります。車は自由に形を変えられますが、人の形はもともと持っている形が一番美しく、それ以上はそんなに変えることができません。

ですが、それぞれが作る経緯、行いの美は、限界なく伸ばすことができます。

「美しくなる」ということを目指す時、「経緯を作る」ということを研究してみるのもいいかもしれませんね。

先生は3分で一曲を作ります。その影響を受けて僕らも行動力が上がります。

先生の仕事がどれほど速いのか、ときどき聞く機会がありますが。

今日の御言葉では、先生は一曲を3分で作るのだと言っていました。

一曲3分で作っちゃうのかあ。

うらやましい!

そのくらいブログも早く書けたらなあ。

仕事量とリターンって関連性がありますから、仕事は早いほうが良いです。

でも、早くやろうとするとどうしてもあらがでるんですよね、われわれ一般人は。

誤字脱字はもちろんのこと、内容がしっちゃかめっちゃかになることも多いです。

あれなのかな、先生も「校正は20回やる」といっているから、はじめの草稿が3分で終わるということなんでしょうかね。

そこからじっくり編集していって、一曲が出来上がるという流れでしょうか。

それならわれわれも少しは先生に近づけるかもしれません。

ブログを書いていて思うのは、筆が止まったときにああでもないこうでもないとやっているのがとてももったいないんです。

考えてそれだけ良いものができればよいのですが、感覚としては5分で書いたものが10点だとして、2時間かけて書いたものが12点くらいになることが多いです。

時間をかけた分、良いものができるとは限らないんですね。

と、そこで先生が作った歌「性能」が思い出されるわけです。

「時間がたくさんあるからといって、人が多いからといってよいわけではない。」

「性能だ!」

という歌なんです。

先生の性能はやばいですよ。

先生は「実践の方」です。

実践力に関して右に出るものはないでしょう。

フリーザの戦闘力は53万ですが、先生の実践力はスカウターでは測れません。

実際に、先生と一緒にいた方が先生の実践を真似したら鼻血が出たと言います。スカウターが壊れるのではなく、鼻がぶっ壊れるそうです。

そういう人は、話す言葉からも実践力みたいなものがにじみ出てきています。

だから、私たちは先生の御言葉を聴いていつも「よし、やろう」という気持ちになります。

そういう影響力のある人が近くにいるってほんとうに貴重だと思います。

感謝です。

(この記事の作成に13分かかりました。)

その昔にお年玉をはじめた人がいたように、その昔に愛をはじめた存在がある。

姪っ子と甥っ子にお年玉をあげました。

お母さんから事前学習したとおりに、「ありがとう」と言ってくれました。

そして、姪っ子はすぐに開封していましたw

お年玉の文化っていつから始まったんでしょうね。

子どもにとってうれしいイベントの一つ「お年玉」。

くれた大人に対してありがとうと言いますが、大人からすると「お年玉の文化を作った人にありがとうを言ったらいいよ。」と思わないでもありません。

僕は、はじめにお年玉をあげた人を模倣し、代理としてあげているだけです。

クリスマスもそうですよね。サンタクロースのモデルは4世紀に現在のトルコに実在したカトリック教会司教、聖ニコラウスだと言われています。聖ニコラウスが貧しい子どもにプレゼントをした、それが世界中に広まって今のクリスマスプレゼントの習慣ができています。

そういう、「もともとは誰が始めたのか。」というのがわかると考えが一段階深くなると思いませんか?

私たちは、はじめに行った人を真似して、代理の働きをしています。

今朝、摂理で伝えられた御言葉で先生は「人が行っても神様が行ったことだ。」といいました。

たとえば「機械は自動で動くけれども、その機械を作ったのは人間だ。だから機械が行ったことは人間が行ったことと同じだ。そのように神様もそうだ。」といいました。

人がやっているようだけど、実はそこに神様が働いていることがあります。

だから、目の前に見える人だけではなくて、神様に感謝をしなさいといいました。

神様は、神様が人間にしてあげたことを、人間が気がついて感謝することを喜ぶといいます。

身の回りで起こっている感謝すべきこと、それがすべて一つのところから出ていることがわかったら、いろいろなものの見え方が変わるのではないでしょうか。

悪い心は誰でも持っている。でもそれを治められるかどうかで分かれる。

一月一日の明け方からロケットスタートを切った御言葉でした。

水が必ず上から下に流れるように、人の心も流れる方向が同じだ。しかしある人は心を治めてやらないし、ある人は治められなくてやってしまうと言いました。

すごい納得。

誰でも悪い心を持つことはあります。でも、それをうまく治める人がいるしそうでない人がいます。

テレビを見ていると、どうしてそんなに短絡的に事件を起こしてしまうんだろうという気持ちもあれば、事件を起こした人にまったく同情の余地がないかといえばそうでないこともあります。

自分が同じ環境、同じ境遇だっらどうだろうか、なんて考えてしまうこともあります。

そして自分がちょっとしたことでイライラしたりすると、やっぱり自分もダメなのかなあと自分を責めてしまうこともあります。

ですが、御言葉では、そんな誰でも持っている心をうまく治められるように教えてくれます。

御言葉でよう言うのは、「すぐに悔い改めなさい」ということです。

神様から見たら、罪を犯していない人はいません。ただ、すぐに悔い改めることができるか。そこが大きいです。

汚れがついたらすぐに洗い落とせるかそうでないか。

その知恵を持っているかいないかが、心を治められるかそうでないかの差だろうと思います。