自分が何をして来たのかは後になってはっきりわかる

赦しについての御言葉でした。

罪があるから、主が犠牲になって赦しの条件を立てました。

罪、と言われてもピンとこない時があります。毎日まじめに生きてるよ、と。

でも、神様から見たときに大きな罪となるものがあります。

そのことを、このまえ歴史の話を聞いて改めて感じました。

罪があると歴史的にどういう大変な目にあったかということもそうだし、どういうものが罪だったのか、という罪の観点についても改まりました。

聖書を読んでいると、登場人物たち過ちについて他人事のように感じてしまうものですが、昔の話から今の話までを順番に聞いていくと、「あ、自分もこの中の1人じゃん」ということを感じざるを得ませんでした。

この10年の間にあったことを歴史として振り返ったときにはそのように冷静に感じられます。しかし、当時、その渦中にいるととても冷静になれるような状況ではありませんでした。

完全に行うってのは本当に難しいものです。

最後までやらないと今までやったこともダメになる

100%やりなさいといいました。

1%でもできてないところがあると、他の99%もダメになると。

私は普段パソコンを使って仕事をしていますが、ほんのすこしのことでまったく仕事が進まなくなることがあります。

わかってみれば些細なエラーだったりするのですが、その1つのせいでフリーズしてしまって何もできなくなってしまうことがあります。

主日の御言葉では「宴会は最後にやる。」ともいいました。

最後まで、100%やってこそ、楽しい時間を過ごすことができます。

今は一年の最後の時でもあるし、一区切りつく時でもあります。

今日は一日御言葉聞いてた

ついさっきまで御言葉を聞いていました。

今日は朝から夜までずっと御言葉を聞いていたことになります。

午後のプログラムは聞かないで帰ろうかな、と思ったのですが、ちょっとした使命もあったし、参加することにしました。

そしたら22時過ぎてた。

今日やろうと思っていたことはできなかったけど、主と一緒にいられたので良かったです。

特に何かをしたわけではないけれど、経緯のある時間になりました。

新生活に馴染めるかはそれまでに性格が合ってこそ。

神様の法は「しなさい、するな」だと御言葉でも言いましたし、歌でも歌っていますが、今日の御言葉はその「しなさい、するな」を説明してくれました。

昨日の箴言でも「法が時代によって変わる」ことを話されましたが、今日は「また新しくかわるよ」ということで、古いものを持っていくことを“するな”、新しく器を作ることを“しなさい”と話しています。

「愛する者どうしは似る」という話もありましたが、主がどちらを向いているのか、考えに似られるように準備をしていきたいですね。

日本でこれから起ころうとしていることと摂理で起こっていることのギャップ

罪と十字架についての話でした。

2000年前、罪があったから、イエス様は十字架にかかりました。

そうして一度すべての罪を赦しましたが、続けて信じなかった人は戦争と迫害の道を歩んだと言いました。

許された時に、その価値をわかって、翻って信じてついていけるかが大切です。

今、日本を見ても運命の分かれ道にあるということを知りました。

ずっと子どもの数が減りつづけていて、日本の活気がこれからどんどん無くなっていくことが予想されています。

統計を見ると、将来的に日本がスカスカになることがほぼ確実な状態です。

私立大学の定員割れや介護の問題で労働力が減っていきます。

昨日それを学んで頭が痛かったのですが、翌朝、お祈りをしに聖殿に行ったら活気に満ちていました。

摂理には若者がたくさんいます。そして年長者と若者、子どもが一緒になって活動しています。

とても希望的なことが続けて起こっています。

そのことが、今日本で起こっていることと対照的で、改めて驚きました。

いろんな対策の必要があると思いますが、やっぱり、御言葉を聞いてついていくことって必要だと思う。

主のための祈りが自分のための祈りにもなる

主のための祈りの中に全てが入っていると言いました。

主のための祈りの中に、自分のことも入っているし、家族のことも入っているし、国や世界のことも入っています。

だから、自分のことだけを考えるところから抜け出なさいと言いました。

人は、子どもの時には自分とその周りの小さな世界だけを見て考えますが、大人になると家族を持ち、ある人は組織をまとめ、ある人は国の代表になり、ある人は世界を見て行動するようになります。

もっと大きく、ずっと先の将来のことを考えて行動する人も、ごくわずかいます。

自分が死んだ後のこと、この世界のこと。

イエス様はまさにこういう考えをしていた人で、その教えが今に至るまで受け継がれています。

イエス様いなかったら、その教えを聞かなかった数十億の人がどうなっていたか、世界はどれだけ混沌としていたかわかりません。

そのように、大きな存在としての「自分」。主のために祈ると、その「大きな自分」のためにも祈ることになります。

少しスピリチュアルすぎるけど、時間ないからおしまいっ。

頭の中がクリアであってこそ、話すことにも力がある

悔い改めてこそ愛に燃えるといいました。そして、そうしてこそ御言葉を伝えたくなります。そして自分が理想的に変わるようになります。

御言葉を伝えていることではありませんが、このブログを書きながら「悔い改めって必要だなあ」と思うことは多くあります。

なぜなら、自分の頭の状態が文章に表れてしまうからです。

汚いものが、あるいは雑多なものがたくさん頭に入っていると、書くことが何も出てきません。または書いても薄っぺらい、あるいは攻撃的な文章になってしまいます。

まるで、血が不純物でドロドロになり流れにくくなっているように、頭の回転が鈍くなります。

血液はサラサラしていてこそ栄養が体に行き渡るように、この霊も罪がなくてこそ御言葉が私たちを生かしてくれます。

今週の主日の御言葉では、「明け方に祈って聡明であってこそ、御言葉を伝える時に力がある。祈らないと説教に力がない。」という話がありました。

説教者向けの内容でしたが、原理は誰にでも当てはまります。その原理とは、「同じことを話しても、その裏にある“何か”は、キレイかキレイでないかで左右される。」ということです。

僕は、こうしてブログを書きながらなんとなくそのことに気がついて、それから自分の管理をちゃんとしようと気を使うようになりました。

その結果、自分の状態を良いところにキープしておくことが、少しはうまくなった気がします。

つまり、誰かに読んでもらうためにブログを書きながら、結局は自分にかえってきたということになります。

神様のための行いは、それがいずれ自分のところに返ってくるということを意味します。

摂理の御言葉では「神様は行なった通りに報いられる」と言います。

話に付き合ってあげるのも愛

騙すな、主は知らなくて騙されているのではない、と言いました。

先生は今までたくさんの経験をしてきているし、事業で詐欺にあったこともあるから騙されることはありません。

ただ、騙されたフリをすることはあります。

なぜなら、そうしてでも相手の話を聞いてあげないと、相手の救いが遠のいてしまうからです。

つまり親心ですね。愛です。

少し前、僕が公園に行った時の話です。

その公園は江戸時代の大名が使ったという歴史のある公園で、管理がきちんとされ、木々や草花、小川、休憩所などがあるきれいな公園でした。

僕が行ったのは春先で、小川にはたくさんのおたまじゃくしが泳いでいました。

(東京でおたまじゃくしが見られるなんて)小川をのぞいていると、小学校低学年くらいの子が近寄ってきました。手には小さな水槽を持っていました。

その子がおたまじゃくしをすくうというので手伝ってあげました。そして、話をするようになりました。

その子は言いました。「この前ね、こーんな大きなおたまじゃくし取ったことある。」そして両手を大きく広げて見せました。

僕は「えー!すごい大きいね。」と言いました。

「それでね、そしたらずっと向こうのほうでね、すっごく大きなカエルが『グワ〜!!』て声がしたの。」

「ひぇー、怖い。」

騙されるしかないじゃないですか。

ここで「ったくそんなのいるわけねーだろ。話を盛るんじゃないよ。」とは言えません。

そのように先生も、愛しているから、たわいもない話を信じてあげることがあります。

学び続けることが難しい

熱心に学びなさいと言いました。

学ばないと苦労する、人の下で働くようになると言いました。

昔、福沢諭吉は『学問のすゝめ』を書き、同じように学ぶことの必要性を解きました。

学問のすゝめは大ベストセラーになり、日本国民の三分の一が買ったと言われています。

多くの人が読んだ本でしたが、果たしてどれだけの人が理解したでしょうか。

一回読んで終わりにしてしまった人も多いのではないかと思います。

先生は、私たちに何度もその必要性を説きます。

忘れっぽい僕らが意識しなくなる時でも、また「学びなさい」と言う。だから続けて学ぶことができます。

続けてモチベーションを上げてくれるので、学んだことを行ないにすることができます。

本は学ぶところは多いですが著者との距離が遠いです。しかし摂理では教えてくれる人との距離が近い。それが摂理の良いところの1つですね。

よりクリエイティブでいるためにお祈りする必要がある

明け方に祈りなさいといいました。

いま、摂理全体で祈る条件を立てていますが、いろんなことが起こっていることを外的にも内的にも感じることができます。

一番わかりやすいのは、こちらの記事ですね。

鄭明析牧師 10年の冤罪人生ー台湾大手メディアに掲載

まだお祈りの条件を立て始めてから日が浅いですが、明らかになるべきことが明らかになってきています。

そのほか、先生が「祈り始めて3日で、今まで解けなかった問題が解けた。もっと早く祈ってくれればよかったのに。」といったこともあります。具体的にはなんでしょうね。

僕自身にも良いことが起こっています。

自分のことなので小さいことなんですが、一番は「頭がクリアになった」ということですね。

今日の御言葉でも「明け方に祈れば聡明になる。祈らなければ力がない。」と言いました。

なぜクリアになるかというと、純粋に“余計な情報が入ってこない”ことがあげられます。

そうすると、「自分にとってなにが一番良いのか」ということに考えを集中することができます。

ぼくはこのことに救われました。けっこう、いろんな情報にさらされて、行動が鈍くなっていたところがあるので。

確かに、いろんな情報を比較しながら検討する必要はあると思いますが、「これが一番」「これがお勧めだよ」「今だけお買い得だよ」といった情報が氾濫している現代では、冷静な判断をすることが非常に難しいです。

そうしたいろんな誘惑を排除して、クリエイティブな自分になれるというか。

それが大きいですね。

「自らやりなさい」といわれる今のときにあって、またAIが台頭してくる将来にあって、クリエイティブであるということはかなり重要です。

今まで、摂理では何度も明け方のお祈り条件を立てていますが、今までは“より霊的なことのために”たてていた条件だったのに対して、今回は“霊のため、肉のため”に立てている条件です。

そのため、僕みたいな「あまり霊的でない」人にとっても効果がわかりやすくなっています笑

こういう効果があるなら、110日で終わらずにずっとやっていたいと思うほどです。もちろん毎朝起きられるわけではありませんが笑

お祈りをすることで、自分がやりたいこと、やるべきことがやれている気がします。

先生の弟さんのポンソクさんもよく言いますが、「自分のやりたいことを自由にやれることは幸せなことだ。それをやれないことは不幸だ。」それを実感することができています。

これからもお祈りを続けることで、いろんな効果が目に見えてくるのではないかと、そういう希望を持っています。

そして、そうした希望が持て、またお祈りを今普通にできるのも、今まで「霊のため」という、一見すると効果がわからないことのために時間を投資してきたからです。

今ちょうど旧約聖書についての御言葉を聞いたのですが、アブラハムは神様に「行け」といわれてそのとおりに実践したら成功を収めました。ほんの一部とはいえ、僕も信仰の条件たてられたかなあという思いです。

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」ヘブル11:1

ん、なんかいつもよりポジティブな記事になった。