動物や植物のように自然体で

「飾ったりかくしたりしないで、万物のようにありのままに証しなさい」という御言葉でした。

万物は本当に素直です。見ているとホッとします。

それは、そこから主の姿を見ることができるからです。

ちなみに私は犬派です。

本来は、人間が神に似て作られたのだから、ごく自然に神様の姿を見せていなければなりません。

でも、人間はサタンにだまされて以来、サタンをも表す存在となってしまいました。

「神ときどきサタン」そんな感じになってしまっています。「今日は一日サタンでしょう」という日もありますね。

お金に目がなかったり、人に見せるために着飾ったり、インスタ映えする写真を撮るために駆け回ったり。

SNSが発達したから、盛ったり隠したりすることを強く意識するようになってしまったのかもしれません。

ありのままに証するためには、主のことをはっきり知りなさいと仰いました。

まだまだ道半ばですが、少しずつ主に似ていきたいですね。

否定的な考えと肯定的な考えの戦い

「否定的な考えはあなたをできないようにさせる」と仰いました。

一度否定的な考えが生まれると、それがどんどん大きくなっていろいろめんどくさくなってきますね。

実際に、否定的に考えたくなるような出来事は日常で起こっています。

だからこそ私たちは「またあのようなことが起こる可能性がある」という防衛本能のようなものを働かせます。

御言葉でも「気を引き締めなさい」ということを仰います。

東京に住んでると変なこといっぱいあるよほんとにフザケンナ。

気を引き締めることは自分の宝を守る良いことですが、行き過ぎると「疑い」や「血気」、そして「否定的な考え」に陥ってしまいます。

旧約聖書に「ヨシヤ」という王様が出てきます。先生のバイブルスタディで取り上げられている人物です。

ヨシヤ王の当世は世の中が乱れていました。それを一代で洗濯してしまったのがヨシヤ王の功績です。

しかし、ヨシヤは最後の最後で失敗してしまうんです。

自国に敵対していないエジプトに対して「あいつは我々を攻撃しようとしている」という否定的な考えを抱いて戦争をし、その最中に重傷を負って死んでしまうんです。

否定的な考えのせいで無駄な戦争を起こし、しかもそこで命を落としてしまいました。

先生はこのエピソードをもって、「無知の中の相克」という話をされます。よくされます。話し出すと止まりません!

さて、ヨシヤは邪悪な時代にあって、懸命に国を立て直すために働いた人です。

立て直そうとする中で、いろいろな困難を経験してきたはずです。

その経験が積もりに積もって、「どうせまた良くないことが起こる」といった考えになってしまっていたのかもしれません。

それでエジプトが不穏な動きをしたものだから「ほらきた。迎え撃つぞ」という自動装置が働いてしまった可能性がありますよね。

なぜそう思うかというと、私がよく経験しているからです。

おかしな出来事にたくさんあうと、どうしてもそうなってしまいがちなんですよ。

東京に住んでるとほんとにそういうことが多いよフザケンナ!

さて、様々な可能性に備えておくことは大事ですが、そこに溺れてやるべきことができなくなったり、色眼鏡で人を判断してしまってはいけませんね。

悪い考えは入ってきても、いつも良い考えをもって打ち消して行かないといけません。

それが御言葉です。善と悪の戦いですね。

箴言では、松や月明洞を大きく育てるにあたって先生がどういう精神で取り組んでいるのかがわかります。

大変なことは多いけど、腐らないで自分という作品を大きく美しく作りたいですね。

人生の終わりに「感謝しかない」と言えるか

この人生は、この肉体が生きているだけの期間あるのではなくて、その先も霊として生きていきます。

日曜日の御言葉では、この行いによって霊が美しくもなり醜くもなるのだと仰いましたが、そのように、生きている時にこの体を持ってどう生きるかが大切です。

多くの人は、死に際に人生を振り返って後悔をするのだという話をよく聞きますし、また今朝の御言葉でもそのように仰っていました。

しかし、今日御言葉を伝えてくださった方によると、最近ある兄弟が亡くなられたそうですが、その方は「ただ感謝しかない」といって目を閉じたそうです。

私も最近幼馴染みを亡くして人の死について考える機会が与えられているのですが、死ぬ時に「ただ感謝しかない」と言えるのって、すばらしいことだなと思います。

そして、それはとても難しいことでもあるように思います。

後悔のない人生って、簡単にできるでしょうか。

私の場合、今日も会社に行って、人の言うことを聞いて、少しばかりのお金をもらって。そんなことしているうちに日が暮れます。

そして、そんな毎日を繰り返しているうちに1ヶ月が過ぎ、1年が過ぎ、10年が経って、気がついたら残された時間が無くなっているでしょう。

御言葉聞いてなかったら、その時に気がついて後悔し、でももう戻れない。そんな人生だったかもしれません。

主日の御言葉でも、ある人が暗いトンネルを歩いていて気がついたら目の前がブラッホールだった、でも後ろからどんどん人が押し寄せてくるので後戻りができなかった。という話がありましたね。

この肉体が死ぬ時のことを考えて行動する。「そんなのまだ早いだろwww」と思いますが、気がついてからでは遅いことでもあります

新郎を助ける内助の必要性。自分が成功するために

今朝の御言葉では「先生を守る祈りをしなさい」と仰いました。

今の時代だからおっしゃる話ですね。

なぜなら、主人は僕に対して守ってほしいとは言わないし、親も子どもに対して守ってもらいたいとは思わないからです。

主人が僕たちの生活を守らなければならないし、親が子どもの面倒を見なければならないのであって、その逆はあまりありません。

稀な例として、優秀な部下が主人を助けるという例はあります。

旧約聖書にも、その時代の中心人物が王を助ける例がいくつか出てきます。

子どもが親の面倒をみるというのも、たまにはあります。

失踪した父親の代わりに子どもが稼いで母親を助け、大きくなってから父親を探すという話を、昔テレビで見たことがあります。

しかし、それは一般的な話ではありません。

主人は僕が生活できるように給料を支給することが法律で決まっているし、親が子どもの面倒をみるべきことも法律で決まっています。

ところが、恋人の場合は違います。

どちらかがどちらかを一方的に助けるわけではありません。

役割の違いはあるけれど、その行なうことは相方を助けるためのものです。

成功者はよく「妻がいたからこそ、今の自分がある。」ということを言います。

自分の努力だけで成功したわけではないのだということです。

あえて固有名詞を使いませんが、巷では、男の運勢をあげる女性、また逆に男の運勢を下げる女性というものがいると言います。

「自分はどういう内助ができるのか。」

そういうことを考えないといけないですね。

玉の輿に乗りたいとか、先生についていけばいいことあるんじゃないかとか、そういう新婦は先生の足を引っ張るだけです。

新郎は宝くじじゃありません。

玉の輿に乗りたいなら、男が玉の輿を準備できるようにしっかりサポートしてあげないといけませんね。

先生が良くおっしゃる「内助」が必要だということです。

先生を守る祈りをする。成功者への内助が必要

今朝の御言葉では「先生を守る祈りをしなさい」と仰いました。

今の時代だからおっしゃる話ですね。

なぜなら、主人は僕に対して守ってほしいとは言わないし、親も子どもに対して守ってもらいたいとは思わないからです。

主人が僕たちの生活を守らなければならないし、親が子どもの面倒を見なければならないのであって、その逆はあまりありません。

稀な例として、優秀な部下が主人を助けるという例はあります。

旧約聖書にも、その時代の中心人物が王を助ける例がいくつか出てきます。

子どもが親の面倒をみるというのも、たまにはあります。

失踪した父親の代わりに子どもが稼いで母親を助け、大きくなってから父親を探すという話を、昔テレビで見たことがあります。

しかし、それは一般的な話ではありません。

主人は僕が生活できるように給料を支給することが法律で決まっているし、親が子どもの面倒をみるべきことも法律で決まっています。

ところが、恋人の場合は違います。

どちらかがどちらかを一方的に助けるわけではありません。

役割の違いはあるけれど、その行なうことは相方を助けるためのものです。

成功者はよく「妻がいたからこそ、今の自分がある。」ということを言います。

自分の努力だけで成功したわけではないのだということです。

あえて固有名詞を使いませんが、巷では、男の運勢をあげる女性、また逆に男の運勢を下げる女性というものがいると言います。

「自分はどういう内助ができるのか。」

そういうことを考えないといけないですね。

玉の輿に乗りたいとか、先生についていけばいいことあるんじゃないかとか、そういう新婦は先生の足を引っ張るだけです。

新郎は宝くじじゃありません。

玉の輿に乗りたいなら、男が玉の輿を準備できるようにしっかりサポートしてあげないといけませんね。

先生が良くおっしゃる「内助」が必要だということです。

この体を使って自分の霊のために生きる

今朝は先生の映像説教と箴言でした。

映像説教ではどんな話をされていたのか、、、恥ずかしながら実はあまり覚えていません。

というのも、御言葉の前の賛美導きで力尽きてしまったからです。

準備に張り切りすぎて本番大事なところでコケたみたいな感じです。

けっこう力を入れてやったら、終わった後も頭に残響が残って、うまく御言葉が入ってきませんでした。

そういう経験があるという話はよく聞きます。

伴奏の方で、あまりに熱心にやりすぎて御言葉の時間に寝てしまったとか、使命にバタバタして御言葉が入ってこないとか。

「それは優先順位が間違っているねえ。御言葉が核ですよ。ははは」と言われればそれまでですが、実際やってみるとそう簡単なものでもないです。

特に明け方は声も出ないし、人も少ないし、しかも寝ぼけているし、直前まで静かに祈っている(一部寝ている)中で賛美をするのだから、なおさら天だけを見て集中しないといけません。

日曜日にも歌手をやりましたが、明け方の方が何倍も大変です。

歌手でも大変なんだから、明け方も主日も説教をしている牧会者はもっと大変だろうと思います。

御言葉はよく覚えていませんが、箴言は読み返しました。

霊の話をしてくださいました。

この体を使って霊のために生きるということ。

日曜日にも、体という木から霊という実を結ぶ話をされていました。

私たちは日常、仕事やバイトをしています。その時は、この体を使ってお金を得ています。

そのように、体を使って、霊のために生きることが、私たちが豊かになるために一番必要なことです。

もう、時間が。

自分の霊の格好は、自分の行いで決まる

今日の御言葉は、「自分の霊は自分の行いで作られる」ということについて話してくださいました。

愛と義を行なえば、霊は美しく作られるそうです。

反対に、自分の行いに矛盾があれば、霊は醜い形になってしまうとも仰いました。

「そんなの関係ねえ!俺は俺の人生を好きに生きて行くんだ!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。

たしかに、自分の思う通りに生きているのが一番たのしいです。

ただ、私も経験したことがあるのですが、好きに生きているとその時は楽しいのですが、環境が変わった時に対処できなくなるんですよね。

たまに何かのお祝い事で超高級なレストランや社交場に行ったときに、「うわっ、自分のこの格好、場違いすぎてヤバイ」と感じたことはないでしょうか。

私はやっちまったことがあります。

いつも仕事でクタクタになったワイシャツを着ていて「これが一番らくだ」と思っていたのですが、ある日、両親に誘われてクラシックコンサートに行きました。

普段通りの楽な格好で行ったら!みんなすげー上品な格好をしていて、ドレスとか燕尾服とか着ていて、ロビーでは楽器の演奏があってそれに合せて社交ダンスとかする人がいました。

「こんはずでは…」と思いましたよ。いつも着慣れている服が急にみすぼらしく感じて、すごく恥ずかしい思いをしました。

そんな私の様子を見て、燕尾服で踊ってる紳士がニコリと微笑むんですよ。

最高にみじめでした笑

こんな風に、自分の姿というのは普段の生活ではなかなか意識することがありません。

しかし、その日その時にはすべてが明らかになります。

霊の姿もそのようで、どのような姿をしているかは、自分が楽であるかどうかとはまた別の判断基準で決まっています。

御言葉では「苦労しても命の道に行きなさい」と仰いましたが、そのように、愛と義を行なって美しく作りたいですね。

ニュースを見るのは時代の流れを見て自分が何をするか決めるため

私たちがニュースを見る理由として、「世の中の流れを知って自分が何をするかを決める」という点が挙げられると思います。

ただ「ものしりになるため」ではありません。全体を把握してよりよい選択をするために見ます。

世の中は変わっていくので、その時その時で「やっていいこと」と「やってはいけないこと」というものがあります。

極端な例を挙げると、昔は刀で人を斬ってもオッケーでした。今は絶対にダメです。

他の例を挙げると、スポーツをやっている方もわかると思います。ルールの変更ってけっこう頻繁にありますよね。このルール変更を知らないままプレイしたら、ファウルを取られます。

私はこうしてブログを書いていますので、簡単にではありますが著作権関係について世の中の流れや官公庁がどう発表しているのかをウォッチするようにしています。

そのように、時代は漸進的に変わっていきます。それは、大きな視点で見ると、神様が人間の次元に合せて導いているからです。

だから、私たちはそれに合わせて行うことが一番の近道です。

今朝の御言葉は、「御言葉が出た時に行なえばやさしい」とおっしゃいました。

自分のやりたいことをやってもうまくいかない時、それはやりたいこととやるべきことがうまくマッチしていないからかもしれません。

固まってしまった脳をほぐす方法

今朝は、凝り固まった脳をほぐす方法について話してくださいました。

固まった脳というのは、自分の思い込みのことですね。

年を取り様々な経験をするほど、人は思い込みが多くなります。

その思い込みは経験から身についたものだから、間違っているものではないんです。

むしろ、正しい判断をするのに役立ったことがあったはずです。

ただし、「その当時は」という条件付きですね。

思い込みは習慣となって、私たちを楽にさせますが、時は流れていくので、その常識が通じなくなる瞬間がやってきます。

その瞬間、私たちの「良い習慣」は「悪い癖」になってしいます。

御言葉で出た「悪癖病」ですね。

だから、今朝の御言葉では、そのような凝り固まった脳をほぐす方法として「心を開けなさい」とおっしゃいました。

偏見なく、いつも神様の公平な視点で見ようとすることが大切ですね。

さらに箴言では「魂、霊で考える」ということもおっしゃっていました。

これは少し難しいです。

人は肉、魂、霊でできていると御言葉では学びます。

肉だけで考えているのは一方向からしか見ることができません。

だから、魂、霊も使って考えることが必要です。

魂は、一瞬でどこにでも行けるし、肉眼では見えないところも透過して見えるそうです。

ちょっと難しいし、もしかしたら笑い話かと思われるかもしれません。

しかし、最近の学説でも「量子テレポーテーション」が実証されていて、光より速く一瞬で移動するという数々の実験が成功しており、研究は日々進んでいます。

まずは、お金も時間もかからないし、試しにやってみてはどうでしょうか。

ちなみに、夢は魂の活動だそうですよ。

夢についても、先生はたくさん話してくださいます。

歴史は一人一人の人生の積み重ね

今朝は御言葉では、今の時について話してくださいました。

そして箴言では、歴史という大きな時について教えてくださいました。

私たちはいつも「聖書の歴史」という大きな時の流れについて学んでいますが、それは元を辿れば一人一人の中心人物たちが少しづつ義を積み重ねてきた結果です。

その流れがバトンを繋いで今に至っているんですね。

今というこの時に何をすべきか、今に生きている価値をわかってやるべきことをやっていきたいですね。