神様はいちいち説明しないで歴史を導く

今朝の御言葉では、心を開けることの必要性について話してくださいました。

自分の考えでは、いくら考えても限界があります。生活の中で起こることも、なぜそうなったのか、さっぱりわからないことがあります。

しかし、神様はいちいち説明しないで人間を導かれます。

なぜなら、人間の低い知能では、いくら説明してもわからないことがあるからです。

この気持ちは、子どもを持つ親御さんならよくわかると思います。

幼い子どもに予防接種を受けさせる時、嫌いな食べ物を食べさせたい時など、いちいち説明して子どもにオッケーをもらってから動くことはしませんね。

そのように、人の知能は神の知能より低い。

だから、心を開けて神様の知恵をもらって判断できるようにしなさい、と仰いました。

私は昨日、仕事帰りにカフェに寄って、賛美を聞きました。

最近、新曲がたくさん出ていますからね。

曲をチェックしたところ、まだ聞いたことのない新しい曲がアップされていました。

『主の体になって実践だ』という曲です。

私は、「先生が作った曲かな?弟子たちが作った曲かな?」と思いながら再生ボタンを押しました。

するとポップなイントロが流れてきたので、私は「弟子が作った曲だ。」と、人間的な判断をしました。

Aメロを聞きながら、(これからどういう展開になっていくだろう、サビはどんなだろうか)と思っていました。

しかし、いつまでたってもBメロになりません。Aメロの次にまた似たようなAメロが入っています。

私は混乱してきました。

(サ、サビは?)

サビが来るだろうことを期待していたのに、結局Aメロが何回も繰り返されて1番が終わりました。

(これ、先生が作った曲や…)

確信しました。

2番が始まりましたが、やっぱりAメロです。

私はカフェで1人、もだえました。

普通、曲の構成といったら「Aメロ→Bメロ→サビ」じゃないですか。90%以上の曲がその構成になっています。それが人間的な次元での常識です。

しかし、先生は「Aメロ→Aメロ→Aメロ→おしまい」だったんです。

いや、もしかしたら「サビ→サビ→サビ」だったのかも?

考えるほどわかりません。

そもそも、Aメロかサビかという判断が適用できません。そういうのが先生の曲です。

本当に先入観を抜いて心を開けないと、先生が作られた100曲覚えるなんて無理ってことを悟りました。

それにしても、先生は「天地創造」とか「風が吹いても揺れはしない」とか壮大な曲を作ったと思ったら、なんか、あえていうと「どう判断して良いかよくわからん」曲を作ったりして、その全てを理解することは果てし無く難しい方だと思いました。

肉体の十字架と精神的な十字架

今朝は十字架についての御言葉でした。

十字架というと、この体が磔にあって死ぬことを考えますが、それよりもっと大きいのが精神的な苦痛だと仰いました。

「精神的に苦痛を感じたことがある人はわかるでしょう?」と言ってましたね。先生は以前「肉体の十字架は一度受けたら終わりだけど、精神的な苦痛は何度も味わうからもっとつらい」とおっしゃったことがあります。

この気持ち、少しでもわかる方はいるのではないでしょうか。「死んだ方がましではないか」そう考えたことがある方は多いはず。

私は、毎日会社に行かなくてはいけないから毎日つらいですね。…その程度じゃ気持ちがわかるとはいえないかな。一応、少し前まではよく「こんななら生まれない方が良かった」ということを思っていました。

肉体の十字架は一度受けたら終わりです。イエス様は、十字架にかかることでその遺産を後世に残しました。

昨日、聖書を読んだのですが、読んだのがこの箇所です。

「いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。 遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。 だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。」‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭9:16-18‬

こうして、イエス様はその言葉を、十字架にかかることで有効にしました。本来の御心ではなかったけれど。

この条件があったので、新約歴史は2000年続きました。遺言の力ってものすごく強いですからね。

しかし、今の時代はそれでは歴史が起こらないのだと、今日の御言葉で仰いました。

なぜなら、子どもは親が亡くなっても遺産で大きく成長することができるが、新婦は新郎なしでは意味がないからです。

だから、先生は死ぬ目にあいながら、一度死んで全てを終わらせるわけにはいきませんでした。続けて精神的な苦痛を受けながら、条件を立ててきました。

そうして、今また会おうとしているわけですね。

そこまでしているから、私たちは前もって準備しなければならない。そういう話なのだと思いますよ。

一対一の愛で導く神様

一対一で接してくださるのが神様の愛だと仰いました。

人によって事情も違うし、個性も違うから、今の段階から一段階上がるために必要なことも、違います。

それぞれに必要なものを、神様は与えてくださるんですね。

だから、自分に与えられている愛がなんなのかを悟りなさい、と仰いました。

私が一段階上がるために必要なもの、それは遊園地に行くことじゃないかなあ。たぶんそうだと思うんだけれども。

箴言は、日曜日にも話された悪癖病「怠慢」について話されました。

一対一だからこそ、人は見ていないし、少し怠けても主は愛で包んでくださると思ってしまうかもしれませんが、そうではありませんね。

行なった通りに報いる神様です。

先生のために祈ることは、あの御言葉とつながっているじゃないか

主のために祈りなさい、と仰いました。

なぜなのか。それは先生が代表だからです。主が勝ってこそ私たちも勝ちます。

昨日の箴言では、「ある問題が迫っている」と先生はおっしゃいました。

その通り、何か良くないことが先生に迫っています。

先生は、その競争に勝たなければなりません。

そのためには、私たちの祈りが必要なのです。私たちが主の手を引っ張り、背中を押す必要があります。

この話は、あの話と通じています。

先生が年始に見た夢、バッタが先生を引っ張る夢の話です。

一年間、毎日思い出さなければならないと言われました。

年始に見た夢の通りに、今は先生が走っています。

今ここで、バッタの力が必要なのです。だからこのような御言葉が出ています。

シナリオ通りに祈らなければなりません!ということを以前も書いた気がする。

あーあ、弟子たちの祈りが足りないから、このままだと先生追いつかれちゃうかもしれないなー。みんなの祈りが、足りないからなー、みんなが祈ったら、夢が実現するんだけど、今のままだとなー。

核の話を核にした御言葉でした。

今朝の御言葉は先生の映像説教でした。やはり先生は月明洞で伝えられている姿が一番気持ちよく伝えられている気がします。

話はエデンから始まって、「核」の話がメインで進んでいきました。

核である先生や月明洞の話をしながら、「核をつかんでこそ全体を掴む、また周りはついていくことができない」と仰いました。

そして、どんなに良いものを得たとしても作りなさいと仰いました。

箴言でも「すべきことが多いから探しなさい」と仰いましたね。

先生は10分も休む時間がないと言います。10分…しょっちゅう休んでるよ。

主日の御言葉でも悪癖について、特に怠けることについてたくさんでていたので、そこからの流れがありますね。

今は「自ら行う」ときですから、どんどん新しい構想を受けて自分からバリバリ働いて飛び回っている人がいる一方で、人から言われないとできなくて怠けてしまう人も多いのかもしれません。良いところは伸ばし、悪癖はうまく切らなければなりません。

そういうこともあって、最近は長所短所の御言葉も多く出ているのかもしれませんね。

箴言の最後には、ある問題が先生に迫ってきているけども、それは大きな問題ではなくて、それより大きな問題は福音を伝えて多くの人たちを神様のところへ連れていくことだと仰いました。

「みんなの引き上げにしか興味がない」という先生の精神を感じますね。

悪い癖は自分を損させる

ココログ

悪い習慣がどれほど損させるかを話してくださいました。

先生がこの御言葉を受けた経緯が、明け方1時から2時間かけて箴言を書き、疲れて横になったら寝てしまい、黄金の時間を逃したというところなのがびっくりでした。

そんなこといったら、明け方の後に二度寝することがなかば暗黙の了解になっている、また毎朝起こすことすらできていない我々はどうなるでしょう。

悪癖は、誰にでもあるということですね。

先日このブログで株の話をしたら「株が習慣になって」とか出てきてビビりました。

こうしたやり取りがあることが楽しいですね。実践してみなければ自分の悪癖に気づけないし、教えてもらわなければ直すことができませんでした。
早速記事を直しました笑

ここで恥ずかしがって主の前に進み出なかったり、頑なになって自分の正当性を主張してしまうとどんどん道を外れて最悪変質してしまいますから、みっともないときでも主と一緒にいる、主が直してくださるということをわからなければなりません。

今日、先生から日本人宛の手紙を受け取りましたが、そこでは「忠誠なだけで愛がわかっていない日本人」と書かれていました。

悪癖を直すことも苦行のように思わないで、主と共に行いたいですね。

悪癖によっていかに損するかは、自分を見てもわかるし、周りの人からも学ぶことがあります。

近所にすぐに怒るおじいちゃんがいることを以前書きましたが、この前、部屋に戻ってきました。

一週間くらい暮らしていたようでしたが、また昨日あたりから静かになってしまいました。

直せないとこのようになる、自分で自分を殺すことを切実に感じてほんと怖くなりました。

まだ70歳くらいだと思いますが、そうとう寿命を縮めているように思います。

先生ほどの目にあって怒らないのはかなりの練達が必要でしょうが、怒って物事を解決しようとする、悪い習慣で今だけやり過ごそうとするところは直さないといけませんね。

疎通の御言葉。愛があるから対話が通じる

疎通の根本について話してくださいました。

「神様との疎通」「主との対話」について以前から話してくださっていますが、今日の御言葉では、疎通しようとばかりするからといって疎通できるのではなくて、愛したら疎通になるのだと仰いました。

これは人間同士でも同じですね。

愛していてこそ対話がしたいと思うのだ。気分が良い時は対話をし、悪い時は主を忘れるのではなく、いつも愛して対話しなさいと仰いました。

これが疎通の根本です。

御言葉はここでいったん中断し、しばらく時間がたって続きの御言葉が伝えられます。

そこでは、主の精神で行うことが疎通だと仰いました。

何をするのだとしても、主を頭にする。

私たちはその時々で行うことが変わり、人によっても様々な考えがありますが、それぞれ考え考えるが御旨ひとつだ。

主から学ぶのはその精神です。

先生の具体的な行ないとしては文章を一日中書いていたり、岩の造形を一日中していたりということになりますが、私たち全員が岩を立てることが御心なのではありません。

今も新しいことをどんどん行なっているし、後世には、今では考えられないことを「先生の精神で」行う人が続出すると思います。そうしなければ古くなります。

主から学ぶのはその精神です。

人がそれぞれ違うことをするのだとしても、「主の精神で」ということは万民に共通していることです。

だからこの時代の御言葉は全世界に広まるわけです。

その共通意識がなくて、見えることだけを意識してしまうと、先生の精神で新しいことをしている人に向かって「そんなことやって、それは御心なのか」と問いただすことになってしまいます。

どんな時も主を頭の中から抜かないこと、それが勝利だと仰いました。

1タラントでもう1タラントを稼ぐためには本当に熱心にやらなければならない

神様は誰にでも才能を与えたから、熱心にやりなさいと仰いました。

タラントの比喩は水曜礼拝の聖句でも出ました。

1タラントは今の価値でいうとざっくり1億円くらいなので(1タラント=6000デナリ=6000日分の給料)、1タラントを預かった人も相当額を預かったことになります。

それだけ価値のあるのが個性だということですね。

それを使いなさい、開発しなさいと仰いました。

聖書の比喩では、5タラントと2タラントを預かった人は、商売をして他に5タラント、2タラントを儲けます。

これは今の言葉に言い換えるなら、「ある実業家は5億の融資を受けてスタートアップを立ち上げ、他に5億を儲けた。」ということです。

5億を借り入れて、営業利益5億です。

成長率100%。

普通にやってたらできません。それだけ大変なことだということだし、はっきりわかって行わないといけないことです。

私だったら赤字にしてしまうかもしれません。

私「ご主人様、あなたは私に2億をお預けになりました。それで商売をしましたが、あまりうまくいきませんでした。ご覧ください、ここに1億2千万円ございます。」

主「…」

私たちは、日々の生活費を稼ぐために毎日8時間以上働いています。タラントを増やすのはもッと熱心にやらなければならないということです。

聖書の比喩で、1タラントを預かったものは土に埋め、それに対して貸主が怒ってお金を取り上げてしまいます。

これは今の言葉で例えるなら、1億を預かって全部土の中に隠しておいたということです。

貸主さんは「銀行にでも預けておけばよかったのに」と言いますが、当時から金融という概念があったことは確かですが、そうした財テクすら使わず土に埋めてしまいました。

今の日本の銀行は異常な低金利が続いていますが、過去には年利1〜2%の時がありました。海外には今も5〜10%も金利がつく国もありますね。
だから銀行に預けておけば、1億円の1%だとしても年に100万円手に入ることになります。

1タラントを隠した人が怒られるのも無理もないかもしれません。

自分の才能を見つけ、知恵を持って使って多くのもの得、主に報告したいですね。

地上天国をなすためには自分をなくすこと

地上天国をなすためには自分を捨てることだと仰いました。

自分ばかりを主張するのではなくて、相手のことを考え、兄弟のことを考え、天のことを考えなさい。

そうしてこそ和睦、地上天国だと仰いました。

昨日のエステルのたとえで話された御言葉でもありましたが、自分を捨てる決心をしてこそ、大きなものを得ることができます。

聖句にも、また賛美にも「種が地に落ちてこそ黄金の野原になる」とありますね。

ただ、一点気をつけたいのは、相手に気遣いすぎて自分を安売りしてはいけないということです。

これは私がものすごくたくさん経験していることで、また同じ悩みを持っている方がとても多いことを感じることでもあります。

なぜなら、日本人は基本的に謙遜で、相手を立てて自分を低くすることが得意だからです。そういう文化です。

これは本当に残念で、自殺率が高いのも日本人のこういう性質のせいだと思うのですが、自分の価値をはっきり分かった上で、相手を思いやらなければなりません。

「自分の価値を悟りなさい」御言葉で何回もおっしゃっていることです。

自分を空にして、自分の位置を守る

今日も位置についての御言葉でした。

エステル記を引用してのたとえでしたね。

エステル記の面白いところは、男性のモデルとしてのモルデカイと反面教師のハマン、女性のモデルとしてのエステルと反面教師のワシテによって物語ができているところです。

この前、このブログでモルデカイとハマンの話を書きましたが、今日の御言葉ではエステルを中心にして話がされました。

だってエステル記の主人公はエステルだもの。

エステルは異邦人ながら王に嫁いだシンデレラです。

モルデカイに大事に育てられたことで、肩書きはなかったけど育ちは良かった。そのことが王の目に止まったんですね。

おめでとー。

自分はラッキーなことにお姫様になりましたが、同じユダヤ民族のみんなは変わらず庶民生活を送っていました。

その上、大臣のハマンがユダヤ人を殺す法律を作ってしまい、大ピンチになります。(すいません、軽いんで正確には聖書よんでね。)

そこでエステルは意を決して、王に法律を取り下げるよう直談判することにします。

これは、今のようにネットでDMを送るとか、お客様相談口に電話するとかそういう簡単な話ではありません。

当時は、王の言ったことに逆らうことは死を意味していました。

だから、エステルはもしかしたら死ぬかもしれない状況でした。

でも、エステルは逃げなかった。

「死ななければならないのなら、死にます。」

そう決心して、しばらく断食したのち、王しか入ってはならない内庭に入って、王に謁見します。

法律通りなら、ここでエステルは殺されなければなりません。

しかし、王の態度は違いました。

王「何か困ってることがあるの?」

ビックリですね。こんなしるしがあるとは。

エステルはここで安心してしまいまして、「やっぱ王様めっちゃいいやつ、イケメン!そんでさー、あの法律取り下げてほしいんだけど。ね、お願い!」

とは言いません。

「王のためにパーティを開きたいので、ご同席いただけませんか?」と言いました。

王は快く許諾しました。

そうして宴会を開くんです。

しかも、そのあともう一回開きます。

そうして大臣の悪だくみが明るみに出て、ユダヤ人の命は救われましたとさ。

つまり、ここまで自分を空にしないといけないということですね。

そうすると、人間的には考えられないしるしが起こります。

しるしについて、箴言でも「ポートディクソンのようなしるしをまた見る」と仰っています。

どんなしるしが起きるでしょうか。