満ち潮が止まることはあるのか

しるしなのかわからないけど、証した方が良いと思ったので書きます。

「これはっ」と思ったのは、以下のニュースです。

アリューシャン列島震源の地震 多少の潮位変化も

今週の御言葉でモンサンポやポートディクソンでの満ち潮が止まった奇跡について話がありました。

私はこの話を何回聞いても実感がわかなかったとこのブログでも書きましたが、その理由の1つは「満ち潮が止まるなんてこと、あるの?」という疑問があったからです。

潮の満ち引きは地球、月、太陽の重力によって起こっていることですから、ついさっきまで迫っていた満ち潮が止まるというのは、月が公転をやめたかなんかしないと科学的には起こらないように思えます。

または、BSの「日よ止まれ」で「太陽が止まったわけではない」と習ったように、本当は満ち潮が止まったのではなくて、先生と弟子たちが御言葉に集中していたから時間があまりたたなかったのかもしれない。

そんなことを考えていました。

そこへ、先に引用したニュースを読んじまったものだから、この時に証しないでいつ証するの?

記事によると、「今朝、アリューシャン列島付近で地震が起きました。これによって、夜にかけて20cm程度潮位が変化する可能性がある。」とのことです。

つまり、満ち潮によってどんどん高くなっていく潮位が、地震によって相殺される、ということもありえるのかもしれません。

そのように思いました。

もしそうだとして、ではなぜ地震がポートディクソン沖で起きたのか。それはわかりません。

おやすみ。

自分にとって最高のものは自分ではわからないこともある

位置についての御言葉でした。

「位置が大事だ」という先生の歌も発表されましたね。

私たちはよく「これが一番自分に良い」と思ってモノを買ったり、専攻を決めたり、仕事を選んだり、人を選んだりしますが、それが本当に自分にとって最高の位置なのかどうかは、人間的にはわかりません。

特に今は新しくする時なので、新しいことをすると経験もないぶん、何をどうしたら良いのかわからなくなってしまうこともあります。

何かを作ろうとして、目にあたる部分を足につけてしまって変な作品ができてしまったり、岩を横に並べるところを立ててしまって崩れたり、そんなことをよくしています。

だから「自分を一番良い位置に導いてください、と祈りなさい」とおっしゃいました。

そして、その位置の話から、先生の位置についても話してくださいました。

先生は、あなたの隣にいるのだということです。

これがわかれば、行ないも霊も大きく変わるのだとおっしゃいました。

箴言でも実践について話してくださっています。

はじめは微弱だが後では大きくなると仰いました。

教会を買うことも、今ばかりを見ないで将来を見ることを話されていました。

長所と短所の話もされましたし、ベーカリーには6/28水曜礼拝の御言葉「<大変なこと>ばかり考えないで、<よいこと>を考えなさい」も更新されて新着に上がってます。

私の個人的な体感では、今までほんとに摂理的に大変な状態が続いたせいか、少しくらい大変でもあまりへこたれなくはなりました。

これ自体は良いことなのですが、この良くないところは、「大変でもなんとかやれる」という気持ちが、もっと良いことに対する目を塞いでしまうことです。

たとえるなら、慢性的にひどい肩こりが続いたせいで、肩が凝っていることをなんとも思わなくなってしまっているような、そんな感じです。

自分の最高の位置ってなんだろ。マジでわからん。祈らないと。

行なった通りに報われるという御言葉でした

今日は、祝日でいいんですよね。

摂理を走っていると祝日なのか平日なのかよくわかりません。

似たようなものです。

結局、人生は実践した者が勝つようになってますから、休日だからという理由で何もしないでいると将来に後悔してしまいます。

だからと言って私は今日何をするのか、まだちゃんと計画が立てられてませんが。

今朝の御言葉でも行なった通りに報いることについて話されました。

話の流れとしては、「惑わされるな」という話から具体的な悪い例を話されて、そこから裁きの話になって、「行なった通りに報いられる」という話になっています。

昨日も「証をするともっとしるしが起こる」とおっしゃいました。

だから私達は、たくさん行なってしるしをさらに起こす竜巻野郎になるべきです。

しかし、なかなか自ら行うことが難しい状況が今もあることを感じます。

今朝の明け方は私のチームが担当でしたが、直前までお互い譲りあっちゃったり忙しいと言って決まりませんでした。

前日に(この流れ、わいがやることになりそうやな)と思っていたのがそうなってしまって少し残念でした。

直前までああでもないこうでもないとやっていたから、準備を十分にできないまま前に立ってしまいました。

私は古い人だから若い人がやったらいいんだけど。

今週はしるしを証する週だし、これからも人前で話す機会はどんどん増えていくだろうから、前もって慣れておく必要があるように思います。

私ももとは人前で話すことが全くできない人でしたが、聖歌隊をやったり明け方に前に出ているうちに少しずつ慣れてきました。

本当は礼拝の引導もやったらいいのかもしれませんが、準備に時間がかかるからヤダ。

今はやらなきゃいけないことがあります。

とにかく、たくさん実践して竜巻野郎にならなきゃいけないということです。

嬉しいしるしもありました。

先日、「求めなさい」と御言葉で言われた時に「チョウンさんの過去の御言葉を聞いて感覚を戻したい」と思ったのですが、とても探しやすくなっていました!

もともと私の探し方が下手なだけだったのかもしれませんが、ベーカリーの「日本国内行事での御言葉」にたくさん上がっています。

感覚を戻したい人は必聴ですよ。という証。

神様のしるしを証するともっとしるしが起こる

神様が行なったしるしを見つけなさいとおっしゃいました。

礼拝の後に御言葉の時間がありましたが、そこでは魂を使うことについて話されました。

生活の中で起こる出来事について、ただ見るだけではどういう意味があるのかわかりませんが、考えて魂を使ってこそ、そこに働かれている神様がわかるようになります。

そのしるしを証しなさいともおっしゃいました。

すると、しるしがしるしを呼ぶのだとおっしゃいました。

たくさんしるしを見つけて、たくさん証し、さらにたくさんのしるしを起こす、しるしの竜巻野郎になりたいですね。

先生のしるしエピソードでは、ポートディクソン海岸の満ち潮が止まったことについて話してくださいました。

なんども聞いている話なんですが、スケールがでかすぎて、ぶっちゃけ実感がわきません笑笑

それでかどうかはわかりませんが、礼拝後の御言葉の時間には、当時の写真や映像を見せてもらいました。

先生が「ここまで潮が満ちたら御言葉をやめよう」と言ってスコップを砂浜にさした、その場所まで潮が満ちなかったといいます。

それで、少し実感が湧きました。

写真では、砂浜に刺さったスコップと木の棒の後ろに夕日が赤々と燃えていました。

それを見た先生は「何かが起こるのだ」と感じたそうです。

そうして起きたのが、9.11の同時多発テロでした。

この話を聞いて、私はさっきまでわかりかけてたつもりでしたが、またさらにスケールがでかくなったためにわからなくなりました笑

科学には「バタフライ効果」と呼ばれるものがあって、たとえばブラジルの蝶が羽ばたいたその風が、将来テキサスの竜巻を起こす可能性があるっていうんですけど、そういう関係があるのかもしれません。

先生の証は大きすぎてはっきりわかるのは簡単ではありませんね。そのためにも、私たちの周りで起こる小さなしるしを証しなければいけません。

私の身の回りで起こるしるし、ではないんですが、とても気になるのがスズメのことです。

私はスズメが好きですが、最近、このスズメが車にひかれるのを見てしまったんですよ。

その時、私は自転車に乗っていました。スズメが車道のど真ん中で地面をつついているので、ビックリさせないように避けて通りました。

その直後、後ろからやってきた車にはねられました。

10分後、その道をまた通ったら死骸は無くなっていました。

なぜ無くなったのかわかりませんでしたが、後日、カラスが動物の死骸を咥えて飛び立つのを見ました。それで「はねられたスズメもカラスの餌になった」ことがわかりました。

知ったのは、朝はスズメも寝ぼけているということです。

動きが鈍いです。だから、あの時私が自転車でスズメを追い払っていたらひかれなかったなあ、とすごく後悔しました。

様々なことで、こういうことが起こりえるから気をつけようと思いました。

スズメが好きでない人にはどうでもいい話ですね。

私にとっては真剣なしるしでした。

ちなみに、ポートディクソンはマレーシアのリゾート地です。

リゾート地でバレーボールか、いいですね。先生が出てこられたら、そういうことがまたできるでしょうか。それか、もっとおおきなことになるかもしれませんね。

楽しみです。

十字架によって自由になること

今、外で朝ごはんを食べています。

定食屋さんですが、とても空いています。

お客さんは、子どもを連れたママさん友だち数人だけ。

ずいぶん賑やかに話しているので聞こえてくるのですが、話しの内容が神霊すぎます。

「御言葉が…」

「いつも感謝で…」

「お迎えする…」

「聖霊様の…」

「チョウンさんが…」

身内かーい。

他教会の方のようです。これから集まりがあるので待ち合わせしておしゃべりしてたみたいです。

話しかけた方がいいのかな。イヤだよ。

それにしても、私たちがこのように平和に集まって生活できるのも、先生が十字架にかかられたからですね。

今朝の御言葉は十字架についてでした。

十字架がなければ私たちは自分がすべきことができませんでした。

なぜなら、罪に縛られていたからです。

十字架によって、罪の縄目がほどかれました。

十字架が無かったらどうなっていたかというと、今も私たちは追われていたと思います。

それに対して私たちは一生懸命対策を練ったり、問い詰められたら戦ったり、あるいは目立たないように生活したりして、大変だったろうと思います。

とても「実践」なんてしてる場合ではなく、前もってやっている余裕などあるわけもなく、目の前のことでいっぱいいっぱいだったはずです。

それを、十字架で全部先生が背負って行ってしまったんですね。

これは摂理の大先輩から聞いたことですが、罪の中でいつまでも「やった」「やられた」「やり返した」をぐるぐると繰り返していた、その歯車が十字架によって外されました。

そのため、私たちは世の中の誰よりも自由であり、大きな祝福を受けています。

だから感謝なんです。

これからの時代は、私たちから先生に近づいていかなければならないと言われています。

なぜなら、先生がすべきことは全てしたからです。

また、もっと具体的なことを言うと、先生は十字架にかかっていろんな風評をご自身で受けましたので、先生から弟子たちに近づくと「あ、またなんかいかがわしいことをしようとしている!」といわれるリスクがとても大きいんです。

そのため、近づきたくても簡単には近づけません。

先生だからそういうのは気にしないかもしれませんが、仮に先生が「やあ」みたいな楽な雰囲気で接してくれるとしても、それは大きな危険を覚悟してのことです。

だから、先生を楽にするためには新婦たちから近づいていかなけばいけないんです。

私たちから近づいて、愛していることを表明しないと、先に進まないし、また先生が十字架にかかってしまうおそれすらあります。

「自ら行う」という御言葉にはそういう事情もあるのかもしれません。

行なった通りに報いる神様

行なった通りに報いてくださる神様を正確に知りなさいとおっしゃいました。

人の目に見えるところで頑張る人は多いけど、神様は人の心を見るのだとおっしゃいました。そして今、隠れた忠誠者が多いんだとおっしゃいましたね。

思い出したのは旧約聖書のエステル記です。

ちょっと時間がないので読み返さないで記憶だけで書きますが、アハシュエロス王の時代、王に仕えていたハマンというおっさんは処世術に長けた人でした。

王の機嫌をとることがうまくて大臣に起用されますが、ハマンは人からどう見えるかしか頭にない人で、いつも自分がどういう功績を王にして差し上げたのかを家族に自慢していました。

ところが、そんなハマンに対して礼のない行いをする人が現れるんですね。

それがエステルの養育者、モルデカイでした。

モルデカイは、王の暗殺を企てる人を暴いて王の命を救ったことがある人です。王はその功績を記録するんですが、そのあとしばらく忘れちゃいます。

そのモルデカイは、ハマンがどういう人かわかっていました。それで、たとえ会ってもあいさつもしなかったそうです。

カッチーン。ハマンはガチでキレました。

(大臣の俺に挨拶すらしないとかあいつナメてんな。ふーん、モルデカイってユダヤ人なんだあ。よしよし。)

ということで策略を巡らして、ユダヤ人を殺す法律を作るよう工作します。

そしてモルデカイを殺すための十字架を作るのですが、策略がバレてしまいます。

王は、ハマンが自分の命を救った人をはめるための法律を作ろうとしていたことを知って怒り、ハマンをその十字架につけてしまいました。

こうして、ハマンも自分の行なった通りに報いられ、モルデカイも王の命を救ったように自分の命も救われました。

めでたしめでたし。

あ、エステル記なのにエステルのこと書かなかった。正しくは聖書でご確認ください。

時間も神も流れていくもの

今朝の御言葉では、神は時間だと仰いました。

一箇所にとどまっているのではなく、生きている神だから動かれているんですね。

小さく見れば、太陽が続けて動くように神様も動いています。

私は昼休みは外の日陰でスマホをいじっていることが多いですが、集中しているといつのまにか日陰が移っていて暑い思いをすることがあります。

時間を大きく見れば時代です。神様は時代ごとに働きかけてこられました。

昨日は香港巡回の映像を見ましたが、そこでも時について話されていました。

それは、最後のひと時だということです。「宴会をする」ひと時だと仰いました。

宴会、祭ですね。

昔の日本では「祭」と「祀る」は同じ意味でした。

さらに「政(まつりごと)」も元は同じらしいです。

だから祭と宗教と政治って元は同じなんですよね。

今は政教分離がされてるから別々にやってますが、やっぱり限界があるように思います。

今の祭やフェス、イベントは盛り上がるけどいっとき騒ぐだけのものになってしまっているし、政治は混迷を極めているし、宗教は誰も受け入れない。

先生が出てこられたら、そういうところも正していくような気がします。というか期待。

夏祭の季節ですね。昔めっちゃ楽しかったな。

伝道者とエバンジェリスト

伝道に関する御言葉でした。

つい笑ってしまったのが、「あなたで終われば希望がない。あなただけが主と聖三位を迎えるなら、それが何の希望なのか。」という箇所です。

昨日の御言葉でも、つたてえくださった方が「私が努力して得たものの中で、主と共に享受できるものはありますか?」と聞いたそうですが、もう個人が「何かをもらう」ための信仰の時代は終わりなんだということを感じました。

主のために何かをして、それをみんなで共有する、というのが今の考え方なんだなあと思います。

昨日もブログに書きましたが、今は個人が尊重される時代です。

YouTubeやmixchannel、showroomといった自分をアピールできる場が今は整えられていて、それぞれがそれぞれのメッセージを発信しています。

影響力の強い配信者は「インフルエンサー」と呼ばれたりします。

これは語源が「インフルエンザ」と同じで「影響力が強い」という意味を表しています。

聖書には、パウロが「お前は疫病のような人だ」と言われたことが書かれていますが、パウロは今で言うインフルエンサーだったんですね。

また、特にIT企業では、企業のメッセージを伝える広報の人のことを「エバンジェリスト」と呼ぶことが多くなりました。

エバンジェリストの元は、そのまま「Evangelism(伝道)」ですから、彼らは伝道者なんですね。伝えているのは福音ではなく企業の宣伝ですが。

「伝道」というと私たちの頭の中に浮かんでくるのはキリスト教の宣教師たちです。

聖書を片手に、裾の長い黒い服を着て、穏やかに話している。そして頭には輪っかがキラキラ光っていたり後光がさしていたりする。

中には頭がハゲている人もいて、「伝道するとハゲるのかな」と思う人がいるとかいないとか。

そういうイメージが今もあるから、キリスト教の多くは今も各家を訪問して聖書を配ったり、わざと昔の言葉遣いを使って説教をして権威を見せようとしています。

しかし、そのやり方に固執する必要はない、というかもしかしたらもう古いものになっている可能性があります。

「伝道者」も「エバンジェリスト」も意味は同じだけど、イメージがずいぶん違いますね。

昔のやり方で、おじいちゃんが各家を回って伝える福音よりも、今は若い女の子がshowroomでぐだくだ話しながら「これ使ってみた」と紹介した商品の方が受け入れられます。ばかばか売れるそうですね。

何がいいのかわからないけど、そういう時代です。昨日も書きましたが、私の職場にもそういう子がいて、推しのアイドルのCDを20枚買うとか、友だちに頼んでライブのチケットの抽選開始から予約を入れまくるということを普通ににします。

「Googleのエバンジェリスト」というとめっちゃかっこいいですが、これはもともと「福音の伝道者」が核として真似しでできたものです。

なのに、やり方だけ真似した彼らだけがカッコよくて、福音を伝える人はなんかうさんくさい。これはちょっと癪に触ります。本家本元はこっちなんだから。

核をわかって、あたらしくおこなっていきたいですね。

ちなみに、これは私の予想ですが、御言葉をうまく証できる力を付けると、ビジネスで成功するのはかなり簡単かもしれません。

これからの時代は自分を作ることが霊的にも肉的にも大事

自分を作ることについての御言葉でした。

御言葉を伝えてくださった方は「自分が努力して得たものの中で、主と享受できるものはありますか?」と聞いたのだそうです。

新婦だと思いました。ただ「ください」というだけでなく、自分が得たものを主と共有したいという姿勢が必要ですね。

月曜の映像説教でも「あなたのものは神様のものでもあるから求めなさい」とおっしゃいましたが、自分が得たものを主のものとして、全体が使うようになるのが一番理想的です。

その質問の答えは「自分を作ること」でした。

崖の上に育った希少種の松ように、また激しい艱難の中で育った摂理史のように自分を作りなさいとおっしゃいました。

自分が作られた時に得られる利益はどんなものとも比べられないといいます。

今、世界的に人の価値が大きく見直されている時です。

先進国ならどこでも「全ての人の基本的人権を尊重しよう」という認識がありますが、今はさらにそこから進んできています。

個人個人が自分をプロデュースする時代になってきていますね。

今までは、個性は捨てて、企業の中で粉骨砕身の覚悟で働き、その努力で何かの商品を作って利益を得る、というのが一般的でした。

今は個人がどんどん前に出てきています。その媒体としてSNSを使ったり、YouTubeを使ったり、最近はミックスチャンネルやショールームといったアプリで自分を押し出す人が多くなりました(みんな若い女の子ばっかりだけどな)

男性向けには、自分を上場できるVALUというサービスが熱いです。

そうしたところで自分が自分をプロデュースして、応援する人が何人もつきます。

そうしたファンは応援している人が勧めるものを買う、という流れができてきています。

今の若い子の何割かは、こうした「推し」が行動の基準になっているそうです。私の職場にもいます。

昔のように、会社の規則に黙ってついていってせっせ商品を作っていれば売れる時代はだんだん古いものになっていくかもしれませんね。

それだけ個人が尊重される時代だから、自分を作ること、というのが一番重要なんですね。

逆にいうと、自分を作らないでは世の中でも成功しにくい世の中になっていくように思います。

最近の子供の夢のランキングには「ユーチューバー」が入ってくるそうですが、自分を作らないでYouTubeデビューしたらガッカリする結果になるのは目に見えています。

自分を作ることが大事、そしてそれをするには、御言葉が必要です。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」についての御言葉でした

今朝は求めることについての御言葉でした。

摂理の弱さは求めることだ、私たちのものは神様のものでもあるから、迷惑だと思わないで求めなさい、とおっしゃいました。

数年前の日本巡回の御言葉が聞きたいよ。他にもたくさん求めることあるよ。

御言葉では日本人のことについて話が出ていましたね。

人の迷惑にならないようにとよく考える国なんだとおっしゃいました。

ぶっちゃけ心の中では何考えているかわからないし、私も外を歩けば上から目線の人に会いすぎて疲れていますが、世界的にみたら周りに気遣う民族なのだと思います。

箴言では、今週一週間「よく考えること」について教えてくださいました。

考えてこそ答えが出る。

これは「考える」ということが「求める」ということにも繋がってきますね。

三位を考えない時間は愛が死んだ時間なのだともおっしゃいました。

「見たから忘れるな」「忘れたら死ぬ」ですね。

ちなみに、教会の文書室のパソコンには「電源を消し 忘れたら死ぬ」と書いてあり、電気のスイッチには「消し 忘れたら死ぬ」と書いてあります。まだ死にたくない。

箴言ですが、体が行った通りに見えるように、考えは考えた通りに、三位に行動として見えるともおっしゃいました。

義も罪も考えた通りに区分され、集中するとフィーリングが来るんだってさ。

脳の愛の世界です。

先生は求めてから10年20年たってかなったこともあるそうだから、諦めずに求めていきたいですね。