人を育てられるのは自分の水準までという御言葉でした

自分が教える人は自分のレベルまでしか成長しないから、今の自分の水準を考えなさいと仰いました。

人が自分の言うことを聞いてくれないと「あいつは何でああなんだ。バカ」と思いますが、それは例えば建てた岩の造形が崩れた時に「あの岩は何で崩れるんだ。バカ」というのと同じで、岩のせいにしているうちは完全な作品は作れなくなってしまいますね。

摂理では、自分のやっていることが人に大きな影響を与えています。

バイトならマニュアル通りにやれば良いし、仕事も上司の顔色を伺ってうまくやりくりしてれば何とかなることが多いですが、摂理での仕事はそうはいきません。霊の命を生かすところだからです。

だから、命のために働く人ほど、もっと自分を大切にしないといけません。

自分がやっていることが人に影響があるんだということに気づくと、「このままじゃ悪い影響を与えてしまうかもしれない。もっと自分の健康も脳も管理しないといけない」と思って動くから、自分の次元も上がってきますね。

そう、だから私も、今日はちゃんと朝ごはん食べて体の調子を整えたし、御言葉を読み返して霊の調子を整えて、そして今日オープンの銀座シックスに行って精神の調子を整えようかどうか迷ってるところ。

時を掴んで行いなさいという御言葉でした

今日は時についての御言葉でした。

主日は主に「歴史」という壮大な時の流れについてでしたが、今朝の御言葉では「瞬間」、特に「寝起き」という最も身近な時についての話でした。

寝るに時があり起きるに時があり、パジャマに時がありスーツに時があり、すっぴんに時があり化粧に時がありますね。聖句通りです。

すいません、正しくは「愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。」伝道の書‬ ‭3:8‬ ‭です。

時が過ぎたら神様は二度と行わないという主日の御言葉で仰いましたが、それを聞いて「神様って冷たいのかな」と思った方いますか?私は思ったのでそれについてあれこれ考えていました。

それで今朝の御言葉を聞いてわかったのは、たとえば、自分の子どもがいつまでも寝ていて昼過ぎまで起きなかったら、お母さんは起こすのを諦めて自分のすることをするしかないように、神様もそうだということです。

だから神様が冷たいのではなくて人間が悪いんですね。

私は長らく摂理の兄弟と暮らしていましたが、よくあったのが、兄弟が疲れて昼寝しているということです。僕もしょっちゅうやってました。昼寝大好きだからさ。

そんな時、周りの人はそこには触れないように気を使ってくれるんですよね。新入生がくると、何としてもその部屋には入れないようにするという苦労がありましたw

ともかく、主日の御言葉を身近に感じられる御言葉でした。

知っていると思うところに罪がある

「自分は知らない」ということを自覚していることが知恵があることだと仰いました。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、これを「無知の知」と言いました。

「自分って何もわかってなかったんだな」ということを知ること。これが無知の知です。

ソクラテスは、ボロ布をまとい、道行く人にかたっぱしから話しかけていたといわれています。

そして相手の答えに質問しまくって、相手が「ああ、俺って何もわかっていなかった」ということを自覚させることをしていたんだそうです。

そうやって人々が今の自分に満足せず、もっと上の段階に登る手伝いをしていました。

人は年をとるとどうしても「自分は物知り。偉い人」となってその場に安住してしまいます。しかし、「知っている」というところにいつまでもいられるわけではありません。

なぜなら、主日でも、その年齢の時その時代に該当することは行って終わったと仰ったからです。時は変わっていくものです。

つまり、どんなに物知りな人でも「以前のことは知っている」だけで、これからの時代のことは誰にもよくわからんのです。

イエス様が福音を伝えていた当時、ユダヤ教のお偉いさんたちは自分たちを賢い者だと思っていました。自分の行いに満足していたし、主観が固まっていました。だから新しい時代が来たことに気づけませんでした。

聖書にはこう書いてあります。「イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」ヨハネによる福音書‬ ‭9:41‬

「自分はよく知っている」と思い込んでしまうのは罪なんですね。

古くなった習慣は捨てて謙虚に学び続ける姿勢が必要です。

御言葉も、毎回同じようでどんどん変化しています。

「<牛>の話をしている途中で<犬>の話もするし、あるときは<天使>の話もするから、最後の一行まで聞いてみなければなりません。」と仰いましたが、そのようにどのようになるかわからないから、続けて学ばなければなりません。

ちなみに、このブログも真面目な話をしていたのに突然プレステの話をしたりどうでもいい話をしたりして、話がどうなるかわからないから、ちゃんと最後まで読んだほうがいいから。

やっていることを後世まで残すことについて

主管圏についての話でした。

摂理の中で実践したことは永遠まで残ると仰いました。

主管圏の外では、いくら大きなことを行なっても残すことができません。たとえば今、北朝鮮では金正日の誕生日を盛大に祝っています(昨日「メディアだめ」って言われたばかりなのにこんな話ししてしまう…w)。

人の動員数、かかる費用は先生のお誕生日より大きいです。しかし、誰得なんでしょうね?この行事の恩恵を被るのは北朝鮮首脳陣だけなので、今の体制が崩れると同時に忘れられます。

一方で、箴言にあったように、先生がいらっしゃることで世界が時代の恩恵を受けます。

だから、俗な言い方をすると、人々がすすんで残そうとします。

そんなふうにして、キリスト教も2000年間も残ってきました。

これは本当にすごいことです。大企業といわれるような組織でも100年で経営が傾いたりするのに、2000年も続くというのは本当にすごいこと。しかもその創始者が今なお尊敬されています。企業であれば創始者のことなんかすぐに忘れられてしまいますね。宗教というのは、そういうところがすごいです。

私たちも、何かしら後々まで誇れることを、若いうちにやっておきたいですね。

実践についての御言葉でした

「実践しなさい」と怒られました。

いままで全て主の条件で成されたもんだから、私たちの中に「何もしないでももらえる」という認識があるのかもしれませんね。

何もしないでもらえたのは子どもの次元で、だからといってひたすらタスクをこなすだけだとしもべの次元。

しかし今は恋人の時代なのだから、子やしもべとして立派にやれるわけでもなく、主は「どれだけ恋人なのか」という測りざおで見ていらっしゃると思います。だから、何もしないというのは子の扱いを受けるというより、ヒモ…?

ヒモ新婦。これは僕が作った言葉ですが、どうですか?

先生は既成をあしざまに言うことがありますが、もしかしたら、もう大きくなったのにいつまでも変わらないから、気持ちが悪いのかもしれない。「いつまで親のすねかじってんだ」みたいな。そんなことを思いました。

何よりも命が救われることを願う神様

今朝は、命に向かう神様の大きな心情を伝えてくださいました。

なにより1人1人を大切に思っている神様が、命が1人いなくなるだけでどれだけショックで寝込んでしまうかを話してくださり、そして新しい命が来ることでどんだけ宴会が盛り上がるかを力説してくださいました。たぶんそういう話でした。

真理の中で自由な摂理だから、命が増えるほど様々なことができますね。

世の中と違って、常に、すごいスピードで変化していきます。

人が中心にいる組織や会社ではこうはできません。なぜなら古い人が組織を掴んでしまうからです。

このように思うのは、私が東芝ビルにたまに行くからです。

一階のスタバ、小さいけどわりと空いてること多いから。

御言葉:仕事より愛を

今日の御言葉は、「働くことと」と「主を愛すること」の順序についてでした。

「働くこと」が優先になってしまうと、あとで虚しくなりますね。

「頑張るほど孤独になる病」は摂理で熱心に走る人なら誰でもかかったことがある病気です。

社会でも、大企業の社長が孤独な生活をしていたり、昔モーレツ社員と言われた人たちの孤独死がニュースで取り上げられることがあります。

成功という結果だけを望んで働くとつらいです。

しかし、やっていることが主に届いていて、見えないけど喜んでくれてるって実感を持てると、甲斐を感じて続けることができますね。

主を綱を掴んで登る

聖餐式の御言葉良かったですね。

あなたはどんなことを捨てようと思いましたか?

私は「古い認識」を捨てたいと思いましたね。
過去、いろいろなことがあって認識が固まっていることを感じたので、全部捨てて、もっと楽しく摂理を走っていきたいなあと思いました。

今朝の御言葉では、いろいろな話をしてくださいました。

重ね塗りした油絵の作品のようでした。

以下は、別々に語られているような御言葉を接続詞などでつなげてみたものです。

主の綱を握って、限界を超えて登りなさいと仰いました。
70日のお祈りを限界を超えて実践したことで悪が無くなったので、セウォル号が引き上げられ、天の巡回のしるしが起こりました。
そして、聖殿の土台の上に巡回が起こったように、5月の韓国大統領選挙の後で、使命者が備えられた道を行きます。
つまり、残り10ヶ月は大変化の時になります。
だから、過去を見て「できない」というな。古い認識を葬れ。

韓国大統領選のためにも続けて祈りたいですね。

罪を抜け出して命の主管圏で生き続ける

もうすぐ聖餐式ですね。

今日は罪の御言葉でした。

例として、たばこを挙げて話してくださいましたね。愛煙家にとって、禁煙はものすごくつらいことなのだそうです。

会社にもたばこ好きがいますが、昨日「あー、健康診断の結果わるいわー。気晴らしにたばこでも吸ってくっか」といっていました。

私は30代ですが、歳をとるほど社内でのおしゃべりに健康の話がだんだん多くなると実感しています。若い時の生活習慣が体に現れてくるからですね。

たまに怪我をして病院に行くと、お年寄りが病気の話で盛り上がっている場面に出会います。

「あら、あなた腰なの?私は膝なのよー」

すごく楽しそうです。

生活習慣が将来の健康を決めるように、罪もそうです。習慣化していると気づきませんが、後でとてもつらい現実にぶつかることになります。

箴言では松の話がありました。月明洞の松は200年300年、神様が責任を持って育ててくださり大きくなるんだと仰いました。

そのように、私たちも罪から抜け出して命の主管圏でいつまでも暮らせることに感謝ですね。

一部だけを見て判断しないという御言葉でした

先生を正しく見なさいと仰いました。

1990年代の月明洞開発の時には、先生の一部分だけを見て躓いた人が多かったといいます。

しかし今になって考えれば、月明洞が無ければ聖殿建築の御働きも起きませんでした。さらに先生のお歳で今から建築に携わることは難しいため、摂理歴史は永遠な借家歴史となってしまい、摂理をよく思わない人たちに「摂理はなぜか固定資産を持ちたがらない」と評価されるところでした。

先生がその時々で話すことが変わるのは、全体を見ているからだといいます。

私は先生のライブの説教を配信でしか聞いたことがありませんが、突然話が変わったり、もう、ものすごいです。普段見ている先生の映像はとてもスマートにわかりやすく編集してくださっています。

ライブの説教は、すごすぎます。

今はまた変わられているのかもしれませんが、一年後が楽しみですね。