考えを綺麗にして礼拝に参加する

礼拝の時、考えを綺麗にしてから来なさいとおっしゃいました。

今夜、実践できる御言葉ですね。

水曜日は1日世の中の波長に触れた後で来ますから、今まさに脳の果実を守るべき時間です。

守るといえば、WBC準決勝どうなったかな、とこのような考えではいけません。

箴言では「選択」について話してくださいました。

姉のマルタは「食べ物をもてなすこと」を選択し、妹のマリヤは「御言葉」を選択したとおっしゃいました。

私たちはどちらを選ぶか答えを知っています。

まさか「食べ物をもてなす」どころか「食べ物を食べながらスポーツの再放送を見る」という選択肢を今夜選ぶことはありませんよ。もちろん、まったく気になりません。ほんとに、まったく。

宝探しの時

御言葉で、今は宝探しの時だとおっしゃいました。

岩にいろいろな形象が隠されているように、主がくださったものにはいろいろな宝が隠されています。

人間も自分の価値を人にわかってもらえないと、「おい、俺を誰だとおもってんだ。◯◯さんだぞ」と思うし、女性なら「◯◯変えたんだから気づけよてめえ」と思って関係性が遠くなるのだから、神様はどれほど気づいて欲しいでしょうか。

人の価値をわかってこそ自分の価値がわかります。

ということは格言でよく言われていることですが、これをビジネス的な言い方をすると、人の長所をわかるとその中での自分のポジションがわかる、ということです。

観客ではなく主人公の人生に

主人公になりなさいと、今日の御言葉でおっしゃいました。

会社でのおしゃべりでは以下のような光景がよくあります。

「WBC見た?」

「ああ、やっぱり自国が強いと盛り上がるな。」

「それと比べてサッカーはダメだな。どいつもこいつも不調だらけでマジくそ。」

という彼は長らく運動すらしてなかったりする…

主日の御言葉でもおっしゃっていましたが、自分にスポットライトが当たっても恥ずかしくないようになりたいですね。

という私も、正直なところ、3.16の芸術祭を見て笑いながら「俺ってなにもしてないのにこんな態度でいいんだろうか」と思っていました。

今年は実体をなせる年だから、なにかしら形にして貢献したいですね。

自分という頑なな山を動かす信仰を

自分という山を動かすことについて話してくださいました。

考えたり学ぶだけでなく、一歩踏み出してみて、「これあかんやつ」と思ってからが自分の信仰が試されますね。

出エジプト記では、イスラエル民族がエジプトにいたころは、獄のような苦役の代わりにニンニクやスイカを定期的に支給される安心感がありました。

しかし、カナンは競合に勝ってこそ得られる世界です。考え方は労働者から社長に変えなくてはいけません。

だから、労働者のように給料が約束されているのではなく、いくら計算しても出てくるのは「見込み」の利益だけです。

それが正しいのか、そして信じるかどうかは自分の信仰次第です。みんなで協力して戦っていきたいですね。

カナンを得るのは大変ですが、得れば乳と蜜が流れる世界です。勝手に流れ出てきます。滝か!

そういえば昨日見せてもらった滝、すごかったですね。宴会の準備にどれだけ苦労したのか、昨日の映像、証、先生のメモ書きなどから伝わっきました。

チョウンさんも何回もお色直ししてましたね。

何回着替えたんだったかな…たしか100回くらいだったかなあ(こういうの覚えとかないと女性は怒るそうですね。)

本当に盛大にお祝いをしたので、生活の中でも栄光を帰していきたいですね。

316記念日

先ほど月明洞での記念行事が終わりました。

月明洞は運動場から芝生の奥までとてもたくさんの人で埋まっていましたが、それでも摂理に人はたくさんいますから、会社や学校で来られなかった人も多かったと思います。

この前の証TVであったように、職場のトイレでのお祈りだとしても、心が問題なのだと思いました。

私は会社を休めたのですが、平日に仕事がないということに違和感を感じました。

朝のお祈りが終わって本行事までの時間、けっこうな時間がありました。

時間の使い方に慣れていなくて、とりあえず運動をしたり聖書を読んだりしました。

手持ち無沙汰になりました。

いつもは仕事でごまかしているけれど、定年になったらこんな毎日がずっと続くのかと思うと、ちょっと怖くなりました。

幸い私は御言葉を聞いているから、やるべきことがたくさんあります。

目的もありますし、まわりに人もたくさんいます。

しかし、御言葉を聞いていない人ってどうしてるんだろう。

定年までがむしゃらに働いて、そのあとはいくばくかのお金をもらって、それで何をするのだろう。

遊び回れるほどのお金があるわけでもないし、体力もありません。ずっと働いていたら友だちもそれほどいないでしょう。

世のため人のために何かすればいいんでしょうけど、そんな気も起きないのではないでしょうか。なぜなら、そういうことは職場で嫌という程やってきたからです。

「定年になったらいろんなことをやるぞ」と決めた人が、いざ定年になると何もやる気が起きなくなるという話を聞きます。

実際に、お年寄りはやりたいことがないからお金を溜め込んでいます。そして親しげに電話をかけてくる見知らぬ人に騙されてお金を取られています。

その額が年間何百億というのを私は信じられませんでしたが、今日、実際に老人と同じような時間を過ごしてみて(笑)、その理由が少しわかったような気がしました。

人生は虚しいなあ、と思って聖殿に着くと、たくさんの人がいました。

行事が始まり、みんな熱く天に栄光を帰していると、私の心にも火がつきました。

「天のためにやることは虚しくない」

そう思いました。

3000人の聖歌隊、勇壮でしたね。

一般のホールではこのようなことはできません。

野外ライブ会場で観客が一体になって歌うということはあるかもしれませんが、ろくに歌の練習をしていない人たちがわーっと歌うのと、以前から練習をして指揮のもと声を揃えて歌うのとでは違うなと思いました。

あとはこの指揮を先生がしてくだされば完璧ですね。

それにしても今日は次元あがったのかな。よくわからない。

やっぱり場所が問題じゃなくて心が問題だよ。

何を得るべきかの優先順位がある

毎朝聞いている御言葉だけでなく、他の御言葉でも明日のことについてたくさん出ているので要チェックです。

御言葉は何にも変えられませんね。

我々は何かに向けて頑張ってると必ず悪魔によって試みられることがあって、「世界の半分をやろう」的なことを言われるのですが、そこで「はい」を選択するとゲームが進まないのが初代ドラクエです。

今日わかったのはそんなところです。

たとえ世の中の半分と比べても、御言葉のほうが価値がありますね。

なぜなら、まず神の国とその義を求めれば他のものはそのうち添えて与えられるからです。

三月は会社も個人も決算する時

3月決算の会社が多いですが、私たちもこの一年を総括する試験結果発表の日が近づいてきましたね。

あるいは、舞台での公演をやりきって評価を待っている期間。

または、持ち時間で漫才をやり終えて採点されている時間。

それか、カラオケでうっかり採点ボタンを押して歌ってしまい、歌い終わった後にドラムロールが流れている瞬間です。だんだん例えの次元が落ちていますが、今日はそんなところです。

ともかく、この一年間を振り返って評価する機会にもなりそうですね。

先生の誕生日までもう少し

先生の誕生日までもう少しですね。

この10年は患難の時でもあったし、祝福の時でもありました。6年前の今日に大震災があった一方で、たくさんもらったものも多かった期間でした。

先生の誕生日にどのようなプログラムが月明洞で行われるのかのお知らせがありましたが、そのようにその日も迎えるんですね。プログラムを見る限り、昔のようにおじさんが腹踊りで先生をお迎えするということは無くなるのでしょうか。

箴言では、「終わりははじまりだ」ともおっしゃいました。最後の一年を、最初の一年を迎えるために実体を用意して待つようにしたいですね。

変わらない心で主と会う

必要なものはまず変質しない心だとおっしゃいました。

「自分自身を装って主と会う」というとなんか女子っぽい表現ですが、その日その時にはなにかしら主に差し上げて自慢できるものが欲しいですよね。

社会的に見ても、生産性が高くて世間や従業員に与えるものが多い人ほど得るものが多く、自信を持って暮らしています。

祈りで内助する

二日連続で祈りの御言葉でした。これで今日一日もぎりぎりメンツ保てる社会人www

私たちは先生に対して祈ることしかできないけど、それが大きな力になるのだという話でした。

やっぱり、これはバッタが先生を引っ張るようなことだし、先生が断食の後に塩を舐めただけですごい力が湧いたということなんだなあと思います。

水曜礼拝では魂についても話されましたね。祈りの内助が必要な時です。