バズったツイートから

間違った方向に実践してはいけないと言いたい。

先生は「病院いけ」言います。

自らやろうとすること

モチベーションには内的なものと外的なものがあって、内的なものは自分からやろうとする心で、外的なものはお金や名誉、義務などです。

外的なモチベーションには強制力がありますが、その副作用で今の日本には労働問題が山積しています。

これはまるで栄養ドリンクのようなもので、一時的にブーストはかかるけどそのあとキツくなります。

自分からできるようになること、これが一番自然、正常なことです。

先生の箴言「正常が頂上だ」

努力を無駄にしないために

「努力した者が成功するとは限らないが、成功した者は全員努力している。」という考え方があります。

この話を聞くと「えー、努力しても報われるわけではないのか。」と思います。

確かに、部活ではみんな努力しましたが大きな大会でメダルを取れるのはほんの一握りだし、研究を何十年としている科学者がその成果を得られる確率もものすごく小さいと言います。

それだから「努力だけじゃダメ、運も必要だ。」という話が出てきます。

こうなると、運はどう掴むのかという話になります。それについて答えを持っている人はいません。

だからこそ、主をつかまなくてはなりません。努力を無駄にしないために。

若い方が成長力がある

歳をとってくると新しいことをしようというよりは、今まで培ってきたものを維持しようという考えに変わることを、実家にいると感じます。人もそうだし、会社や文化もそうです。年に一回初詣して忘れられるのって八百万(やおよろず)の神様的にはオッケーなのでしょうか。

バアルとアシラの見た目について。聖書を読んで疑問に思ったことを調べてみた。

こんにちは。昨日は山の日でした。学生にとってはもともと夏休みなのであまり関係ない休みですが、社会人にとっては貴重な祝日です。

かといって私は山に登るわけでもなく、電車の中でブログを書いています。

なぜ書くのかといえば、「書くことが好きだから」だと思います。史上初のエベレスト登頂を目指したジョージ・マロリーは、「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と取材された時「そこにエベレストがあるから(Because it’s there. )」と答えたといいますが、ブログもこうした内的な動機があって書いています。

何かをやる時、外的な動機、たとえばお金がもらえるとか、賞をもらえるとかいう動機は、瞬間は自分を動かしますが、持続しない燃料です。

もちろんそうした動機でも続ければ成長するし、そのことでお金が稼げるようになったり人から賞賛されるということはありますが、根本的な力ではないので、逆にもらえるお金が減ったとか、人から悪口を言われたりするとモチベーションが下がることになります。

つまり、他人次第で自分のやることが左右されるということです。

そういう外的環境に左右される動機ではなく、内的に燃え上がって持続する、つまり「好きだから」というのがとても大事ですね。

そういう意味では、2月から挑戦を始めた聖書通読を先日達成したのですが、これは「通読したら褒められるぞ」という思いがややあったのであまり良いことではありませんでした。

それでも、山の頂上からの景色が綺麗なように、聖書を通読することで6000年の歴史を俯瞰できたのは大きかったと思います。このチャレンジをする前、聖書を100読以上している方から「通読すると良いよ」と言われた時には「ははん、そんなのあるわけない」と思っていましたが今悟りました。

たくさんの感動があった聖書通読で、それをここに書けばこの記事を読む方にも聖書を読むモチベーションになるかと思うのですが、そういうことをするのは私はあまり好きではないので、あえてまったく感動しなかったエピソードを書きたいと思います。

それが何かというと、「バアル」と「アシラ」についてです。旧約聖書に偶像として登場する「バアル」と「アシラ」。

バアルもアシラもなんども聖書の中に登場し、神の民を惑わしては自分を信じるように引き込んでいく悪い奴らです。

バアルはその後進化して、「バアル・ゼブブ(ハエの王)」と呼ばれるようになります。新約聖書に出てくる表記では「ベルゼブル」ですね。

そのくらいキモいキャラなわけです。ハエの王様なんて、ああ嫌だ!


こんなかわいくないかも

イスラエル統一時代のサウルやダビデ王と敵対していた「ペリシテ人」は、バアルを神と崇める民族でした。

ペリシテ人は、イスラエル民族と数々の戦闘を重ねる中で、勝利をおさめるとバアルに栄光を帰していました。バアルはペリシテ人の心の拠り所だったのです。

私は聖書を読みながら、このバアルの「ハエの王」という呼称といい、イスラエル民族を苦戦させる強さといい、いったいどんな奴なんだと、疑問に思うようになりました。

バアルは偶像だから、もちろん像が作られているわけです。それが現代に発掘されているのかもしれない。

そこでググってみました。


出典:Wikipedia

…………

えっ?

なんか思ってたのと違う。

間違えたのかなと思い、もう一度検索しました。


出典:Wikipedia

えっ?

ぜんぜんハエっぽくないし、力が強そうでもないし。てか腕ほっそ!俺でも腕相撲で勝てるわ。片足前に出してるのは何の意味なの?こんなのにイスラエル民族が誘惑されてたとか、ありえないわー。

あ、そうだ。アシラはきっと違うのかもしれない。

アシラは豊穣の神。女性神だから、きっとその偶像もスタイルが良くて美人に作ってあって、それで多くの人が誘惑されたに違いない。


出典:アシラ(Asherah)

えっ…。

スタイルについての疑問もあるけど、そもそもこれは女性をかたちどった偶像なの?

女性のスタイルの良さは「出るところは出て、引っ込むところは引っ込む」ところにあると思ってたけど、このまっすぐなラインは美しいの?

これを拝むとか、いったい当時の人々はどういう考えをしていたのでしょう。

当時の人々には魅力的だったとしても、時代が進むとおかしなことに気づく、そういうことがあるのかもしれませんね。

聖書読みたくなった?

宇宙からの投稿、こんにちは、聞こえてますか

こんにちは、お久しぶりです。

気づけば更新をしなくなってから半年以上経ってました。

もう誰も読んでないのかもしれません。誰か読んでいるでしょうか。

宇宙の遥か彼方から地球に交信を試みるような気分です。

宇宙に取り残された人が、かすかな希望を持って日々の記録を残していくっていうSFがありますが、私もそのように記録を残したいと思います。

この半年間、私がなにをやっていたかといえば、ただ一つのことです。

その一つのことというのは、「スズメと仲良くなる」ということです。

この一つのことのために、私の精神は集中していました。

半年前、スズメたちは私の膝の上に乗ってくることがありました。靴の上に乗ってくることもありました。それは以前ブログに記録を残したとおりであります。

その時に申し上げていた私の目標は、スズメを取って食べるということです。

なぜなら、この宇宙では食料不足が深刻であり、地球、こと日本では取って食べることが制限されているスズメ肉でさえ、食べなければ生きていくことができないわけです。

そのため、スズメと仲良くなって油断させ、そして捕獲、と考えているわけですが、膝の上に乗ったスズメを、どう捕らえたらいいというのでしょう。彼らはとても臆病な生き物で、食べ物を食べている間でさえ周りをキョロキョロと見回して警戒しています。

そして少しでも怪しげなところがあると、すぐに飛んで行ってしまいます。私が貧乏ゆすりをするだけで、地震だと思って逃げてしまいます。

このままではスズメを捕らえるのは難しい。もっと仲良くなり、油断させなければジビエを味わうことはできない。

そのようなことを考え続けていた半年間でした。

そして、半年間の研究のすえ、ついにそのチャンスがやってきたのであります。

手乗りスズメになりました。

もう、捕獲したも同然でしょう。私がこの手のひらをギュッと握ってしまえば、彼の運命は尽きるのです。私が、彼の運命の支配者なのです。

しかし、問題が一つあります。調理に必要な電気やガスが近くにないということです。このことは、ここが屋外だからコンセントやガス栓がない、という単純な問題ではありません。ここは宇宙なのです。長い宇宙生活で電気もガスも使い果たしてしまったのです。

そのため、まずは宇宙をくまなく回りながらソーラーパネルの素材集めをし、発電ができるようにしなければなりません。

スズメのジビエを味わえるのは、もうしばらく時間がかかりそうです。

証や伝道は自分のため

風邪をひいていて、しばらく朝会に行かないでいた。周りの人にうつすといけないし、咳がひどくて御言葉の妨げになると思ったからだ。

明け方、いつもと同じ時間に起きて、御言葉を配信してくれるように連絡した。布団の上で(だって風邪をひいてるのだから)御言葉を聞いているうち、眠くなって寝てしまった。
数日間、そんな御言葉の聞き方をしていた。だから、風邪が治って再び聖殿で御言葉を聞けるようになったときは、嬉しかった。家で御言葉を聞いていたときは気づかなかったけど、だんだん波長が悪くなっていたのだ。
なんとなく「つまっている」感じはあった。でも楽だったから、気にならなかった。家で一人で御言葉を聞いているうち、その楽さに味をしめて「聖殿に行くの面倒だな」と思い始めたころ、自分でもちょっと調子がおかしいのではないかと思うようになった。
「悪い」という状態は「良い」状態がどんなものかわかったときにはじめて判断することができる。これは人に説明しても難しい。僕ももっと次元の高い人から見たら明らかに悪い人間だろうけど、そこはまだ自分でも気がつけていない。同じように、僕も周りの人が悪い波長を出していると、わかるときがあるのだ。その人本人は気づいていないように見えるし、むしろ正しいことをしているように思っている節すらある。
これを、説明するのは難しい。我慢することもできない。一緒にいると影響を受けてしまうから。ましてや「あなた波長悪いですね」というわけにもいかない。喧嘩になってしまう。だから、そういうときはその環境を離れるしかない。今週の御言葉ではっきりおっしゃってくださったから、気が楽だ。
文章を書くようになって、自分の「波長」についてはとても気をつけるようになった。もしかすると、聖霊様が前面に出てこられるようになってからかもしれない。聖霊様はそういう波長に敏感でしょう。
波長が良いときと悪いときでは自分の中から出てくるものがまるで違う。波長の良し悪しが自分にしか影響ないのならいくら悪くてもどうでもいいんだけど、少なくとも文章を書いて人にわずかながらでも影響を与えていることを思うと、自分の状態には気を使わざるを得ない。結局、自分を大事にするということだ。
そう考えると、証や伝道が自分の引き上げに大きく関わるというのもよく理解できる。人に向けて働きかけていると、そうしている自分の状態がよく見えてくるものだ。足りないところ、もっとこうしたら良いと思うことがどんどん湧くように出てくる。
そうしながら、自分をよりよく作っていく。そうやって次元を高めていくんだなあ。

表現に高低をつけるとエネルギーが増す

悟りは主と私たちが合うことだと仰った。
昨日会社で悟ったことがあって、一日中感謝して笑っていたので周りからはキモいと思われていたのだが、何を悟ったかというと、「神様と私たちが一つになると、そこに強弱と高低と曲線が生まれる」、と言うことだ。
神様が「高」、私たちが「低」だ。以前御言葉で、強弱と高低と曲線は神秘の原理だと仰いました。あの御言葉が出てから、ずっと気になって考えていた。どういう意味だろうと。
で、考えていた時に、もしやと思って、TSUTAYAに行った。行く途中でメンバーとすれ違って気まずい思いをしたが、ベテランの人だったので誤解もしないだろうと思い、「TSUTAYAに行く」と正直に話して店に入ったよ。で、ワンピース開いてみた。はっきり言って内容はもうどうでもいい。30過ぎて漫画が楽しいことはない。御言葉では漫画はダメだけど、そこは心情を理解して欲しいんだ。
ワンピースを読んで思ったのだが、あの漫画はめちゃくちゃ強弱を多用している。麦わらの一味に大きな敵が立ちはだかる、っていう場面がすごく多い。効果音でいうと「ドオオオオン!!」ばっかり。
それからTSUTAYAをぐるっと回った。そしてわかった。どのヒット作も、小さいながら高低、強弱をうまく使っている。
「圧倒的な悪vs弱小の正義」「校内一のイケメンと普通の女の子」「進撃の巨人と壁の中に引きこもる小さな人間」「電車男とエルメス」例を挙げたらキリがない。
時代を超えてヒット作は全部こうなっているのだ。そしてもともとは「神と人」がモデルなのだ。
さっき「一日中感謝して笑っていたので周りからはキモいと思われていた」と書いただろう。あれも、感謝の「高」とキモいの「低」でわざと高低を作り、表現してみたものだ。笑えたのではないだろうか?
こんなふうに、作れるものなのだ。
ただ神様の素晴らしさを表現しているだけでは平坦になってしまう。ただ自分の足りなさを表現するだけでもだめだ。
「主と自分が」一つに。主との経緯を増やして、高低のある神秘的な世界を作ってみてほしい。

どんなに計画しても道に迷うことがある。迷ったら御言葉だ。

行うには、計画が必要だ。

仕事なら向こうからタスクがやってくるし、ノルマや納期が課せられて、やらざるを得ない状況に置かれる。
すぐ近くに同僚もいるし、負けてはならないからと闘志を燃やす人もいるだろう。
しかし、自分の夢をなすための行動は、誰も催促しない。締め切りもない。いつまでもあと伸ばしにできるし、やらないとしても現状維持ができる(ように錯覚してしまう)。
だから、計画が必要だ。
そして、計画は具体的にしなさいと言われる。
たとえばダイエットをする時「冬までに5kgくらいダイエットしたいかも。今の体重?わかんない(。ゝ∀・)bわら」ではなく、「何月何日何時何分までに58kgの体重を53kgにする!」と決める。日々何をどのくらいやれば良いのかリストを作って、1日の終わりにはそのうちどのくらいできたのか自己採点する。
これはとても難しい。しかも正しく計画を練るためには正しい知識を知っている必要があるし、計画を実行している最中には「こんなん無理だし」ってなる時期がどうしても出てくる。やってるうちにどんどん不安になってくるもんなんだ。
つまり、計画を練る前には自分のこれまでの考え方と戦わなければならないし、計画を練る段階では自分の無知と戦わなければならないし、計画を実践する段階では自分の怠惰と戦わなければならない。
これほどまでに障害が多いのだから、夢を実現することはどれほど難しいだろうか。
しかし、自分の考え方を直すことも、正しい智慧を得ることも、怠惰や不安を克服することも、御言葉でできるんだ。
そうだよね。
実践していて道がわかんなくなったら、祈りと御言葉だ。

既得権益層との仁義なき戦い

既得権益層との戦いというのは、いつの時代にもあるものだ。映画の題材としてもよく取り上げられる。

幕末もそうだし、第二次世界大戦前後もそうだし、安倍政権とSEALDsの対立もその範囲で語れることがある。
2000年前にはキリスト教とユダヤ教が対立し(と言ってもユダヤ教が一方的にイエス様の活動を止めたわけだが)、イエス様は十字架にかかった。

こうした対立について、大きな話はできないが、会社での体験を通して感じたことを書こうと思う。
以前働いていた会社では、全て手書きで書類を書くよう、上司から言われていた。パソコンの方が速いが、ダメだと。一人一台パソコンを支給されているのに、それはただの置物だった。僕は経理をやっていたのだが、伝票も手書き、元帳も手書き、間違ったら赤線二重線を引いて訂正する。
これがどれほどの苦労かわからないかもしれないが、ためしに数字をボールペンで書くと1秒かかるだろう。それをテンキーで打てば0.2秒で済む。つまり5倍時間がかかるし、手への負担も大きく変わる。そもそも、ずっと数字ばかり書いていると眠くて仕方ないのだ。
上司は東大出で、頭はいいはずなんだけど、今思えばIT難民だった。表作成もExcelを使わせない。ではどうやるかわかるか?A4用紙に定規で線を引いて表を作るんだよ!その線が曲がっていると怒られるんだ。なんとも言えない気分になった。
上司はパソコンを使わない理由についてあれこれ言っていたが、何を言っても僕には(俺はパソコンを使えないんだ)としか聞こえなかった。
ある時、我慢できずにインターネットで伝票ソフトを検索していた。上申しても許可されないのはわかっていたが、妄想でもいいからデータ入力がしたかったのだ。
上司は、そんな僕の気持ちを脱獄を見破る看守のごとく察して、パソコンを覗き込むや一喝、
「おい!インターネットなんかしてると、宇宙人になるぞ!」
まさに東大の知性が溢れるご指摘だった。僕の脱獄は未遂に終わった。
上司は、パソコンを許可すると若者の方が有利であることに薄々気づいていたのだろう。そんなことをしたら自分の立場がなくなる。だから自分を守るためにあらゆる知恵を絞って止めたのだ。たとえその行為が会社全体の利益を損なうとしても。
これは小さな経験ではあったが、大きなことを考えるきっかけになったことは確かだ。知恵をもって対応すべきことを学んだのは大きかったし、自分が年をとった時にこうならないようにと戒めにもなった。
みんなも気をつけよう。彼らはあらゆる頭脳と、権威を使って止めにかかってくる。彼らの武器は知識と権力、経験だ。それに対してどう戦えば勝算があるのか、しっかり考えるべきだろう。
それから、今の若者の中には、将来この上司のようになってしまうのではないかと心配になる人がいくらかいることも、感じるようになった。何を根拠に?と言われても困るが、長年上司に付き合ってきて、同じにおいがするとしか言いようがない。上司とその若者の共通点を挙げるとすれば、変化を嫌う、現状に満足している、自尊心が強い、などだ。時代は繰り返すものだから、30年後も僕が経験したような光景があちらこちらで繰り広げられているのではないかと思う。少しでも、そのような未来から救い出すことができたら嬉しい。
ついでに思い出したが、この会社は小さな自社ビルで、一階が応接室、二階がオフィス、三階が重役室、四〜五階が会長宅だった。会長は犬を飼っていた。その犬が散歩の時間になると奥さんとオフィスまで降りてくる。僕はよく懐かれていた。
ばっちりトリミングを決めて、毛がふわっふわだった。この犬が、僕より良いものを食べ、良い暮らしをしていることは明らかだった。僕は事情があって昼間は300円の学食で済ませていたし、部屋は半畳しかなかった。犬より劣った生活だと思うと苦しかったが、それでも、信仰生活だけは一生懸命した。世の中の縮図を見ているようでもあって、とても勉強になったのは確かだ。