戦争は「より奪った方」が勝ち、平和は「より与えた方」が勝つ

今日は、いいことがありました。

自分がやっていることに、協力してくれる人が現れました。

最近はそういうことが多くて嬉しいです。

協力してやることで、自分1人では得られないものを得ることができるようになりました。

ずっと1人でやろう、やらなければならないと気を張っていたところだったので、少し気が抜けてしまいました。

困ったのは、協力してくれることで僕もなにかを返さなきゃいけないことです。

1人でやっているぶんには人のことを気にしなくて良いのですが、こうなってしまったからには、もっと自分から与えられるものを身につけなければなりません。

そうやって、与えて与え返す、っていうのが聖書に出てくる「善の競争」です。

悪の競争は、「奪ったら奪い返す」というものです。

言われたら言い返す。報復をする。

多くの人がそうしています。

そうではなくて、なにかをしてもらったらしてあげる。

その循環が平和を生み出します。

「先生にしてもらったことは多い。だけど私たちから先生にしてあげたことはあるのか。」ポンソクさんがよくおっしゃる言葉です。

してくれることに負けないように、自分からしてあげる。

戦争では、より相手にダメージを与えた方が勝ちですが、平和は、より相手にしてあげた方が勝ちです。

革新的な実践を

昇一さんを迎えて御言葉してもらいました。

新しい歌についての御言葉だったけど、僕が一番気になったのは、先生の精神の話についてでした。

先生の精神ってどんなものでしょ。

とにかく「最後までやる!」

そうなんだけど、ちょっと考え直さなきゃいけないことがあると思うんですよ。

バリバリ仕事に打ち込む姿もそうなんだけど、それだけじゃ無いんです。

先生から学ぶ人たちが認識を改めなきゃいけないことがあるなあと、僕は思いました。

それは、「実践の革新性」ともいうべきか。

歌もそうだし、サッカーもそうなんですが。

僕らは、先生が歌ってたら「面白い歌だなあ」と思うし、サッカーやってたら「うまいなあ。でもディフェンス本気出して無いでしょ。」と思うんですが、もっと注目しなければならないのは、その革新性です。

牧師がサッカーって…

僕らはふつうに受け入れてますけど、宗教界からしたらけっこう「おいおい」ってなることだったと思うんです。

しかも先生がサッカーを始めたのは今から30年も前の話です。

サッカー人気がそれほどでも無い時期。人気のないスポーツを、牧師である先生が始めたわけです。

今までの常識では考えられないことを、先生はやった、その革新性がすごい。

「牧師がサッカーなんてやったら権威が下がりますよ。」

「そんなダサいこと、牧師のイメージダウンになるからやめてください。」

そんな声があったはずです。でも先生はやり続けました。

そしてサッカーは摂理の文化に。多くの人が集まりました。

今ではサッカーをやることはふつうですよね。そういう「ちょっと新しいこと」をやることが流行っています。

お坊さんがiPad持ってたり、警察官がDJをやりながら渋谷の交差点を警備していたり。

そういう、あとでは当たり前になることを先生はずっと前からやっているんです。

さらに、ただ新しいことをするだけではなくて、そこに御言葉がうまく乗っているわけでしょう。

サッカーの一つ一つの動作に御言葉が入っています。

こういうことを、私たちもやらないといけないんだなあと思います。

裾野が広がらないからね。

先生はこれからもそういうスタンスで走られるのだろうと思います。

はじめはなんやかんや言われるでしょう。

「そんなことやっていいの?御言葉通りなの?」

でも、最後までやったら、時になってその苦労が報われます。

変わらない心

今日は、あまり寒くありませんでしたね。

天気も昨日よりは良かったです。

昨日は皇居の周りを走っている人がほとんどいませんでしたが、今日はたくさんいました。

皇居の周りの歩道ってすごく広いんですが、その道が狭く感じるくらい人がいました。

そのように、時によって状況は大きく変わるんだなということを感じました。

状況が悪い時がいつまでも続くわけではなく、誰もいなかったところも状況が良くなれば人が戻ってきます。

変わらないのは、お濠にいる鴨だけでした。

鴨は、天気が良くても悪くても、同じようにお濠に浮かんでいます。

そのように、神様はどんな時も変わりません。

先生も変わらず御言葉を伝えてくれています。

変わらない心、持ちたいですね。

落胆するような時ほど、チャンスがある

今日は久しぶりに雨が降りましたね。

冬の雨は冷たいです。

もう外に出るだけでも気持ちが滅入ります。

みんながそう思ってるから、外にはほとんど人がいませんでした。

特に皇居周りね。

いつもランナーがたくさん走っているのに、今日は1人2人しかいませんでしたよ。

たくさんいるのは、お濠に浮かんでる鴨だけでした。

鳥たちは雨が降っていようが寒かろうがあまり関係なさそうな顔をしていますね。

万物ってすごいと思います。

水曜礼拝のあと、ご飯食べて銭湯に行ったのですが、ここも貸切でした。

鼻歌を歌おうか悩んだほどです。

かなり広々と使えました。

大変な時って誰にでもあるものだけど、そういう時ほどチャンスってあるんだなと思いましたね。

落胆しちゃダメだって御言葉でも行っていましたね。

落胆するような時ほど、雨が降っている時ほどチャンスがあります。

そんなことを考えながら、また次のプログラムの時間が近づいてきました。

こういう生活がしばらく続いています。

ずっとこの時が続くわけじゃないから、今を頑張って生きる

あ、とても眠い。

布団でゴロゴロしていたい。

眠いんです。夜の11時なのだから。

でも、起きていた方がいいんです。今の時期は。

これも、いつまでも続くわけではありません。

いつか「あの時はあんなふうにしていたよね。」という思い出になる日が来ます。

その時には、今が大変だったことなんか忘れてしまうんです。

今やっておいたことの実を、将来は受ける。それだけがあります。

だから、今すこし大変だったとしても、やっておく価値があるならやっておきたいです。

もう僕も若くないしね。

もともと体力自慢なほうじゃないから、この歳になってもそんなに衰えてる気はしないけれども。

何より、御言葉を聞いてると、みんな若いっていうのがあるけれど。

それでも歳をとっていくから、時は過ぎていくから、時間を惜しんでやらなきゃいけないことがあります。

そして、やらなきゃいけないと思いつつも、勇気がなくてできてないこともあります。

できてないことが、誰でもあるじゃないですか。

それって自分の力でできることもあれば、それだけではできないだろうこともあります。

今年、摂理は「希望と感謝の年」です。

そういう波に乗ったら、自分で行くより遠くへ行くことができます。

だから、今日も祈ります。

これから出かけます。

祈ります。

完全に夜型の生活になってるんだけど、それも今だけです。

あとでは「あの時はこうしていたね」という思い出だけが残ります。

完璧がいいけど、やってみて欠点を克服していかないと完璧にはたどり着かない

ブログを「誰に向けて書いてるのか」ということについて、改めて意識したんだけど。

いざ、自分が思い描いたペルソナに向けて書こうとすると、なかなかこっぱずかしいものがありますね。

ということで、今日はおしまい。(^^)/~~~

最近、また新しい歌がリリースされています。

覚えながら、感じることがありました。

まず、曲を聞きますよね。

覚えられません。

ていうか「このメロディ覚えられるの?」という不安の方が強いです。

そこを忍耐して、何回か聞きます。

少し慣れます。

曲なしで歌ってみます。

間違えます。

また、曲を聴き直します。

間違ったところが「ああ、こんなメロディだった」とわかります。

音源なしで歌ってみます。

また間違えます。自分なりのメロディと歌詞になっちゃうんです。

で、また聴く。

これを繰り返すうちに、完全に覚えるようになります。

これは、御言葉も同じだなと。

繰り返しやっているうちに、自分のものになっていきます。最初から完璧は難しい。でも、やらないと自分のものになっていかない。

うまくいかなくて、御言葉通りに伝えられなくて、指摘されるのだとしても、また原点に返ってやればいいんだと。

どんな時も主の中にいればいいんですよね。

誰に向けて文章を書くか

ブログを「誰に向けて書いてるのか」ということを改めて考えさせられました。

手紙やラインには、メッセージを届けたい相手がいるじゃないですか。

ブログは特定の誰かが必ず読むというわけではないんだけど、書く人は「誰に書くか」というのを明確にすることがとても大事です。

なぜなら、誰に書くかで、誰が読むかが決まるからです。

読んでいる人に合わせて書くんじゃないですよ。

書く人が何を書くかで、どういう人が読むかが決まるんです。

それが主人だから。

僕は、このブログを始めたころは「摂理を悪くいう人」に向けて書いていました。

でも、飽きました。

それからペルソナ(想定する読者)を変えました。

どう変えたのかは内緒です。

でも、読んでくれていると思います。

現状、このブログはアクセス数があまり多くありません。

SEOもやってません。

ただ、目的はあります。

それを成したら、集客もしたいと思います。

最近「誰に向けて書いているのか」を改めて意識したのは、そのペルソナがブレていたからです。

メッセージを届けたい相手はいるけど、いろんな人が読む可能性のあるブログ。

誰かが傷ついてしまうような表現になっていないかは気になります。

しかし、いろんな人のことを考えると、話を届けたい人に届かないつまらない文章になってしまう。

バランスがうまく取れなくて、少しブレました。

先生はすごいなと思うわけです。

たくさんの人が聞いている話なのに、みんなに該当するってどういうことだよ、と。

そういう話は、御言葉以外にはあり得ないんだと、文章を書いていると思いますね。

必ずどちらかに偏りますから。

先生の御言葉は何気ない話が多いですが、それはみんなの救いのことを考えているからこそそうしている、という面はあると思います。

もっと刺激的な表現方法はいくらでもありそうですが、そうはしません。

だから、何気ない表現なんだけど、深く理解してみると大きな発見があったりします。

その心情をわからないといけない。

「御言葉に勝手に付け加えたり除いたりするな」という話がありますが、それは、御言葉があらゆる角度から精査して書かれたものだから、そこに含まれた流れ、バランス、位置関係を壊さないように、ということだと思います。

私たちが一語一句御言葉をコピペしないといけない、ということではないだろうなと。

御言葉の価値がわかったら

御言葉の価値がわかったら、先生が何をしたのかがわかるから、そこから、オレらは成功への道をひた走ることになる。

それまでは、ただの、なにか。

「そこに山があるから」山に登り、「そこに神様がいるから」礼拝に行く

山、好きですか?

好きな人、なぜみんなが登るのかわからない人、いろいろいます。

「そこに山があるから」という理由だけで山に登る世界的な登山家がいました。

その味は本人しかわかりません。

私の父は山が嫌いです。冬山で遭難者がでたというニュースを見るたびに、「ほんとバカだな。山なんか登るからだ。」と言います。

僕も子どものころはあまり好きではありませんでしたが、摂理で登山イベントをやったときについていったら「面白い」と思ってしまいました。

たまーに、一人で勝手に山登ってます。スノーピークとかパタゴニアとか、ちょっとだけワクワクする人です。

神様も同じです。

好きな人、よくわからない人います。

よくわからなかったけどわかってみたら好きになった人もいます。

神様の愛は、それを受けている人しかわかりません。

神様についていろいろな説明はできますししますが、結局のところ「そこに神様がいるから」礼拝に行くんです。

「してください」より「します」が良い

神様には「〜してください」より「〜します」が良いです。

してもらったほうが相手と近くしてる感じがするし、逆に自ら行うことは孤独に思えますが、神様から見ると「してください」という話が多くて「します」という話が少ないので「します」という人の方が目立ちます。

これが人間の考えと神様の考えの違うところです。

というわけで、自ら条件を立てた方が良いのですが、だからといって「します」といって条件を立てはじめて、はじめからうまくいくわけではありません。

何回も、何年も挑戦が必要なことがほとんどです。だからこそ自ら条件を立てる人があまりいないのですが。

先生は岩の造形を5回崩れても最後まで条件立てました。だから「御言葉通りに行った」と自信を持っていうことができます。

最後までやりきると、そこからドサっと祝福を受けることになります。

そこで終わってはいけません。

先生を見ると、岩の造形を最後までやった後でさっさと海外に行ってしまい、作ったものはみんなが使うようにしました。

自分が受けた祝福を切り取って人に祝福を与えたわけです。

そこまでやれたら「先生のような実践」だと言えるのではないでしょうか。