先生の行動力を自分のものに 摂理の便り

金曜日、仕事納め、そして23時くらいに
聖殿に行って御言葉を聞きました。

一人で聞きましたが、先生の話ぶりに
一人で興奮していました。

先生は御言葉を火のように、
カメラ一台以外何も無い環境で伝えているんです。

その火を受けて僕も興奮していました。

環境がどうでも関係なく、
変わらず極的に主を証される先生です。

一年を振り返って思うのですが、
先生のその超人的な精神が、
すべての不利な状況を転換させました。

悪評やら裁判やら取材やら投獄やら、
何があっても先生はまったく変わりませんでした。

墓の期間、様々な状況に出会って
摂理の将来性を心配し、
見切りをつけた方も多くいます。

その方はきっと今頃
「摂理は先生なしでほそぼそやってんだろう。」
と思っているでしょう。

しかし、人間の考えとは、神様の考えは違います。

ほそぼそと続けるどころか、V字回復しました。

ずっと底値を這い続けるのかと思いきや、
ぐりぐりと持ち直してきました。

普通の人はあそこまで虐げられたら
再起不可能です。

しかし先生はそれをやってしまいました。

四転五起不屈の精神。

この言葉を、実際に行って、
私たちに示してくださいました。

そして2014年はさらに次元を上げて
御言葉を伝えると仰っています。

もうなんかすさまじいですよね、
「ああ、ここまでやるんだ」って。

うっかりして口が半開きになっちゃいますよね。

先日の御言葉で、みんなに手紙を書いているうちに
気づいたら夕方になっていた、と仰ったんです。

僕は、年末仕事に忙殺されて、
気づいたら昼休みが終わっていたということがあり、
その時、どれだけ集中したら時間のたつのを
忘れるのか、というのを体験したのですが、
普通にあれが2日続いたら倒れるなって思いましたね。

先生についていったら2日で鼻血が出る、
ということわざもありますが、
それくらい先生の行動力はすさまじいものがあります。

私たち一人ではたいした行動はできません。

しかし、私たちは先生を師とし、新郎として、
影響を受ける立場にあります。

先生の、そして先生を通して働かれる
御子の気を受けて、力をもらって、
来年はどんどん行っていきましょう。

PS
このブログの文章、
見た目のインパクトをつけようと、
前まで赤字で強調していたんですが、
若い子が「天国には黒と赤がないんだって」
って教えてくれたので、
啓示だと思って青字にしていました。

しかし最近、チョウンさんが
真っ赤な服を着て登壇するんですよね。

あらーってなって、やっぱり赤字にすることにしました。

先生も以前、「黒はだめだ」って言った後に、
黒いスーツで説教を伝えられたことがありました。

それで「これは黒じゃないよ、濃い紺色だよ」
って言うんです。

笑っちゃいましたが、
同時にすごく嬉しかったのを覚えています。

なんでかって、社会人、
スーツは黒が基本なんですよ。

それ以外持っていないことが多いんです。

説教で「黒はだめだ」って言ったら、
黒い服を着ている人に対して
すごく冷たい視線が送られてくるんですが、
それを先生は離れていてもわかって、
自ら黒い服を着て現れたんですよね。

こういうところいいですよね。

なかなか文章を通しての説教だけでは、
そういう生の、リアリティある愛が
伝わって来づらいことがあります。

早く出てこられて、みんなの前で
ライブの説教を伝えていただきたいですね。

クリスマスの目的 摂理の便り

仕事の忙しさはヤマを越えて徐々に落ち着きを取り戻しつつあります。

仕事が忙しいことで、礼拝に出られないといったデメリットは多くありましたが、良いこともありました。

それは、余計な情報に触れる機会がなかったことです。

ずっと会社にいたので、クリスマスの「ク」の字もありませんでした。

何の誘惑にもさらされませんでした。

12月に入ってから、巷で聞いたクリスマスソングは一回だけ。

あちこちに気を散らす機会が無かったので、頭の中はすっきりしているし、考えもシンプルにまとまっていて楽です。

しかし一般的にはそうではありません。

恋人が見つかれば天国、見つからなければ、あのクリスマスの雰囲気がわずらわしいだけの地獄です。

先日、銀行でお金を下ろしているときに、後ろで「おせーよ、まだやってんのかよ、早くしろよ」ってずっと言いながら唾を吐きまくる人がいたんです。

一瞬いらっときてしまい、「なんすか」と言って見ていたら、「俺はクリスマスの流れに乗れなかった、どうしよう」って気持ちが伝わってきたので、かわいそうだと思って「そんなら先に使いますか?」って聞いたら「うるせーよ」と言って大人しくなりました。

クリスマス、なんなんでしょうね。

クリスマス本来の目的は、あなたを救うキリストが誕生したことを感謝してお祝いすることですが、日本ではそこの目的を摩り替えているのはご存知ですね。

日本でのクリスマスの目的、それは端的に言えば企業が儲けることです。

なんでかっていうと、企業が今の日本のクリスマスを創ったからです。

どんなに華やかでも、どんなに雰囲気が良くても、どんなに楽しくても、全ては企業がお金を稼ぐために作り上げた世界です。

クリスマスの主人公はあなたではありませんよ、企業です。

企業が新郎であって、クリスマスはその新郎が創造した世界、その目的はただ一つ、会社に栄光と儲けを帰すること。

変な言い方をするとこういうことです。

目的が目的なので、クリスマスにどれだけ投資しても、行き着く先は、企業の喜びですね。

日本のクリスマスの道を進んでいって、100の線を越え、200の線を突破し、300の線までたどり着いた先にあるのは、会社天国です。

会社とあなたが一体になる天国です。

会社が新郎となり、あなたが新婦となる世界です。

頭痛いですね。

もうそれは天国じゃないですよね。

だから溺れないようにしましょう。

目的がなんなのかはっきり分かって、うわべだけ見て判断しないで、自分が進むべき道を知恵をもって見分けていきましょう。

クリスマスの本来の目的が回復することを願います。

あなたを救う救い主が生まれたこと、本当に奇跡です。

その目的が自分の引き上げであること、本当に感謝です。

そうした目的を持った世界に呼ばれた価値を感じてこの期間を過ごしましょう。

この一週間、毎日終電ペースでした。

水曜も金曜も礼拝にいけず、朝のお祈り会にも参加できない。

いわば普通のサラリーマンと同じような生活をしていたわけですが、
そこで一番考えたのが、「いったいみんな、どういう計算で人生を過ごしているんだろう」ということでした。

仕事して、休んで、仕事して、遊んで、休んで、仕事して。

そうやって40年働いて、途中で子供を育てて、退職して、余生を過ごして、死ぬ。

うーん、自分で考えても希望的な計算ができない。

「そんな大げさなことを考えるな、気楽に行こう」と人は言うでしょう。

そうですね、確かに、仕事を一生懸命したらお金がたくさん稼げるし、楽しいです。

来月はおそらく給料1.7倍くらいになりそうです。

それを考えるとよしって思います。

それでちょっと遅めのクリスマスプレゼントを自分にしたりしてね、よしじゃあまた頑張るか、と。

それで頑張って、疲れたらまた自分にご褒美したり、遊んだり、旅行行ったり。

そうしているうちに、人生の日が暮れて、遊ぶ体力もなくなって、死ぬ。

・・・

やっぱりそこまで考えちゃいますね、僕は。

どう考えても人生の戦局が不利に傾きます、信仰がないと。

どうコマを進めていっても、詰むんですよね。

「あれ、もう手がない」って状態にいつかなる。

もし仮に成功して、事業を起こして、人生を謳歌できたとします。

僕の祖父はそういう人でした。

葬式では、向かって右に親族が並び、左に会社の人が並び、僕は正面に祖父の会社の人たちを見ていたんですが、まあ、悪い言い方をすると、会社狙っている人がぽつぽついるなあと、そんな印象でした。

祖父はそういうところを抜かりなくする人だったので、死ぬ前に叔父に事業を渡しました。

大変なんだなあと思いました。成功した後も。

そして、叔父の代のあとはどうなるんだろう。

さらにその後は?

って考えていくと、やっぱり不安があります。

旧約聖書に、ソロモンっていう、王であり大富豪であり知恵者が出てくるんですが、その人は人生の終盤に、相続に触れてこういいました。

「今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。」伝道の書2:21-22

そして、その子供の時代に国が二つに分裂してしまいます。

彼が建てたエルサレム宮殿も、いまや嘆きの壁だけが残るだけです。

人生の空しさを知っていたソロモンはいいます。

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。」伝道の書12:1-2

人生の計算を間違わないよう、霊に投資しないといけませんね。

肉は滅びますが、霊は滅びませんから。

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」マタイ24:35

仕事が忙しくなると何が一番問題かって、性格変わる人が出るってことですね。

忙しくなる → 業務がこなしきれなくなる → それは自分のせいじゃなくてあの人が悪い → あいつのせいで忙しくてストレスになってるから責任取れ

これが黄金パターンです。

しかもこれを女性じゃなくて男性がやるんです。

これを先生に使った女性が過去にいたので、これは女性がよくやる必殺奥義なのだと思っていたんですが、計算が違いました。

女性だけが使うムーン・スパイラル・ハート・アタックだと思っていたんですが、これは男性も使うんですよ。

僕は今まで、誰かがこのムーン・ゴージャス・メディテイションを繰り出そうとしてるなってのがわかると、その人から逃げるようにしていたのですが、これもまた間違いであったと、金曜の御言葉を聞いて気づきました。

先生が借りていた聖殿にいつもおしっこをしにくる犬の話、ありましたね。

先生はその犬を追いかけました。

そして叱ると、犬は「習慣になっていて、悪いことだと思いませんでした。」と言ったんですね。

僕は「悪いことだとわかってない」っていう点にはじめて気づきました。

今まで何度かその犬の話は聞いていたんですが、そこに気づいたのは初めてです。

ちゃんと言えば分かることもある。

そこをわかったので、実践してみたいと思います。

ブログを書く目的 摂理の便り

会社が水、金定時退社日で、どんなに忙しくても礼拝のある日は帰れるラッキーな職場なのですが、最近水金も残業になってきました。

それで金曜は御言葉が終わってから聖殿に行きましたが、それでも主がそばにいて恵みを与えてくれました。

少しすれば落ち着くと思うのですが、しばらくは、毎朝メールボックスをチェックするたびに山のような新着メールが届いている光景を目にしそうです。

摂理では社会は実践の場だといわれますが、忙しいときは特に実践のしがいがありますね。

水曜日に「小さいことから行いなさい」って仰いましたが、これがモロに使えました。

朝メールボックスがパンパンになっているんですよ。

普通に考えたらどうしたらいいかわからないですよね。

でも「小さいことから行いなさい」っていう裏技を知っているんです。

わかりましたーっつってとりあえず手をつけていくんです。

するとそのうち終わります。

それであー感謝だなーっていってパンを買いに行って、パンについているシールを集めるわけです。

もう少しでミッフィーカレープレートがもらえるくらいたまります。

ためても交換しないかもしれませんけどね。

ためるのが楽しいだけなんで。

自分の仕事が終わったら隣の人の仕事を手伝います。

隣の席の人は御言葉聞いていません。

朝、メールに圧倒されて、真っ青になって「えーどうしよう」って言ってメモリがいっぱいになって動作が遅くなります。

それで仕事が進まないと上司に「何やってるんだ」って言われて、事情を説明して、1時間くらいミーティングする。

ミーティングから戻ってくるともっと仕事が増えていて、じゃあ支援を求めようということになって、経験のある人を呼んできて、業務説明をする。

そうこうしているうちに、もう夜です。

本当に天と地の差があります。

なんでそんな差が生まれたのかっていうと、たった一言「小さいことから行いなさい」っていう御言葉を知っていたかどうかなんです。

たった一言です。

僕と隣の人は平常時の仕事のパフォーマンスはそれほど変わりません。

むしろ彼のほうが早いです。

自分でマクロ組んで仕事効率化しているし、ディスプレイ3台持ちで見た目もできる感じです。

僕はマクロ組めないし、ディスプレイ3台の代わりに菓子パンが机の上に置いてあります。

ただ、違うのは御言葉を知っているだけ。

「だけ」はおかしいですね。

先生からもらっている御言葉っていうのは、マクロ組めるとか、仕事効率化虎の巻を知っているとか、資格持っているとか、そういう表面的なスキルとは違います。

どんな仕事をするときも、何をするときでも、流行廃りに左右されず、永遠に使える、それが御言葉です。

しっかり自分のものにしていきましょう。

話は変わって、水曜礼拝の後にポンソクさんのブログ「古木」の紹介がありました。

出会いと対話
ログインすることで記事を読むことができます。

そこでポンソクさんがブログを書く目的などを話していただいたんですが、、、、
同じブログを書いているものとして、本当に自分が恥ずかしくなりました。

どんな目的だったかと言うと、聞いているうちに自分が恥ずかしくなってきて耳を閉じてしまったのであまり覚えていません(笑)

ただ、先生を証しようとするその一心だったのは覚えています。

先生のことを生涯を通してご存知であるポンソクさんにしかできない話もありました。

そんなのとても今の僕にはできません。

できないんですが、じゃあ無理して背伸びして立派な証をすべきかというと、それだと続けられないんですよね。

無理して御言葉を真似して書いた文章を気に入ってもらえたとして、「すばらしいです、どうしてこんな文章が書けるんですか」って言われて、「いやあ、まあコツとしては、御言葉のコピペかな」っていえないじゃないですか。

ですので、たとえ足りないんだとしても、比べないで正直に書こうと思っています。

正直に書いていたら、気に入ってもらえてもそれが自分の本性ですから、それはとても嬉しいことです。

正直にやってたら足りないところもあからさまになるので、あとは実践するうちに修正していけばいいだけです。

ところで、ポンソクさんが生涯を通して先生のことをご存知であるがためにポンソクさんにしかできない証があるのと同じように、当世を生きている私たちにしかできないことってありますね。

後世にはけっしてできないこと、今やっていますよね。

引き上げです。

この時期を逃すと二度とできません。

先生がいないから。

後世の人からしたら、私たちの話を聞いて「うーむ、すごい・・・とてもわれわれには無理だ」って思うわけです。

そう、われわれは偉大な先人たちなんです。

後世から見たら。

ともに走る兄弟の顔を思い浮かべていただければ、みんな偉大な顔をしていますよね。

していますね。

アーメン。

毎日何気なく過ごしていますが、とても大事な今のこの期間だから、自負心をもって大切に過ごしましょう。

ちなみに僕がブログを書く目的は3つあります。

1、主と近くするため
2、ライティングの勉強
3、世の中に証する

もうポンソクさんのブログの目的に比べたらちっぽけで恥ずかしいばかりですが、これが正直な目的です。

1については、社会人として、どうしたら距離は離れていても心が離れないかを考えに考えた結果です。

社会人、普段一人ですからね。

ほっとくとどんどん流れていくのを以前から如実に感じていました。

それでどうしたら、どうしたらずっと近くにいられるんだろうってすごくもがいていました。

会社を辞めて自由人になって御言葉の実践に専念するのもいいですが、まだそれだけの資本がない、その結果、文章でメッセージを送ることにしました。

そばにいてほしかったからです。

これが僕の文章を書く大前提です。

もしかしたら先生も同じところはあるかもしれません。

たぶんこの期間、先生が毎日御言葉を送らなかったら私たちは世の中に流れていますよね。

それを引き止めて引き上げをなさせようと御言葉を毎日送ってくださっていることが本当に感謝です。

2については、文章を書く勉強のためにブログを書いています。

文章はどこにいても使えるツールです。

監獄にいても。

そういう風に、先生が血のにじむ実践を通して道を開いてくださったツールです。

だから文章力を磨いておけば、将来どうなったとしても大丈夫ですね。

3については、もともとブログをはじめた目的がそれでした。

世の中に先生を証するぞっていう目的が一番でした。

でも、それだけだとモチベーションとして弱いっていうのを、実践していて感じるようになりました。

証するぞっていうだけだと漠然としていて、実践しているうちにまるで宙に鉄砲を撃っているような空しさを感じるようになりました。

それで好きな人に向けて書くっていうのに気づいて、それが今は一番のモチベーションになっています。

今では文頭に御言葉を入れていることがありますから、はじめてこのブログに来た人は「なんじゃこりゃ」っていってすぐページを閉じるはずです(笑)

そうして読む人が限定されていきます。

ブログって誰でも読めるように公開されているものなので、誰が読んでいるのか心配になるかもしれませんが、そういうのはあまり心配ないと思います。

読むっていう行為は体力がいるし時間もかかるので、その文章を気に入ってくれる人以外、どんどん離れていきます。

街頭演説なら、それが耳障りなときは「うるせー」って言いますが、ブログなら「閉じる」ボタンを押すだけなんで。

だから愛している人に向けて書く、実践する、これがとても大事です。

かっこつけて書くと、かっこつける霊が寄って来ますから、無理して立派な証をしようとするのはおすすめしません。

是非、あなたも何かするとき、好きな人に向けて、っていうのが継続する力になりますので、実践してみてください。

幼い新婦を脱却するぞ 摂理の便り

誰もいない聖殿って、ちょっとわくわくしませんか。

僕は聖殿に入って誰もいないと「わあ」って思います。

それで賛美をしたり、前に出て話す練習をしてみたり、いろいろ好き勝手しています。

一方、誰もいない会社って怖いですよね。

誰もいない学校もめちゃくちゃ怖いです。

なんで同じように「誰もいない」って状態なのに、違うのかわかりますか。

霊界が違うからですね。

聖殿には、誰もいなくても三位がいらっしゃいます。

礼拝には誰よりも先に来て待っていらっしゃるという御言葉がありました。

いらっしゃるから、人がいなくてもとても暖かな感じがするんですね。

そして会社や学校にもいます。

三位ではなく、低級な霊が。

御言葉で出てきたわけじゃないのでどんなのがいるのか確かではありませんが、今の学校教育っていうのが大企業と政治家が話し合って「優秀な労働者を作る教育をしよう」と決めてできたものである以上、人の価値を100%発揮できないように押さえつける力は存在しているといえるかもしれません。

その力っていうのを、人がいないときにモロに感じて怖いと思うんじゃないですかね。

僕の考えですが。

教育に従事されてる方は、是非、職務を全うする以上に、農学校から多数の偉大な先人を送り出したクラーク博士のように、そして先生が私たちを教えてくれたように、子供を大きく育てていただけたらと思います。

いずれにしても、ひとっ気がなくなったときにその霊界っていうのははっきりしますね。

おそらく、この肉体がなくなったときも同じような現象が起こるのでしょう。

この肉体がなくなるとき、死ぬとき、そのときに、まるで人がいなくなった聖殿のように、あるいは学校のように、今まで隠れていたものが姿を現すんでしょうね。

そしてそこでずっと暮らすんです。

それだからもっと頑張らないといけませんね。

というわけで、日曜日は霊界の話をしてくださいました。

霊界は木の年輪のようになっていて、命の道に行くのは200人に一人と仰いました。

0.5%です。

大体、学年に一人ですね(汗)

学年トップにならないと命の道にいけないという・・・。

いやいやしかし、私たちはその命の道を歩いているんですよね。

まわりがみんな命の道を歩いている人なだけです。

学年トップばかりが集まったようなもんです。

御言葉にあったように、選手が選手村に集められるように、集められているだけです。

0.5%っていうと、経済圏では富裕層って呼ばれる層に余裕で入りますね。

純金融資産を1億以上持っている人のことです。

すごいですよね。

これをいかに実感して、実践して、実体化できるかが聖霊集会の御言葉でした。

あなたは、もしここに一億があったなら何をしますか?

いろんなことが頭に浮かんできますね。

あれを買って、これをして、と。

それでは、摂理の御言葉があったら何をしますか?

いろいろ浮かんでくるでしょうか。

一億以上の価値がある御言葉ですよ。

ぱっと、あれして、これして、って浮かんできますか。

こないんです。

わくわくしていてもたってもいられない、ってとこまでいかない。

それが課題なんです。

僕にとっても。

そこの頭の回路を正常化したら、ものすごいことになります。

先生からもらっているものがあまりにも多すぎるから。

あとはそれをどう行うか。

どうやったら御言葉っていうお金を使って買い物ができるのか。

それを知ること。

わかりやすくいうとそういうことです。

僕は小学校低学年のころ、いや幼稚園だったかな、どうやったら買い物ができるか知りませんでした。

お母さんの買い物についていって、「何か買っていいよ」って言われたから、スーパーをくまなく回って、ついにゴルフのおもちゃつきのお菓子を買おうと決心しました。

まだ覚えています。

ゴルフのおもちゃつきのお菓子を買うと決めたのですが、どうしたら買えるのかがわかりませんでした。

母に教えてもらったかなんかでレジに並ぶっていうことを知ったのですが、知っても、なかなか実践できませんでした。

なんか怖かったんです。

レジが(笑)

おばさんが無表情で品物を右から左に移しているんですよ。

お客さんも流れるようにてきぱきと動いているんです。

その流れに入れるわけないじゃないですか(笑)

レジに並ぶくらいなら死んだほうがましだ、じゃないですけど本当に嫌でした。

なんとか買って、精根尽き果てて家に帰りました。

おそらく、今の私たちも同じような状況じゃないかと思うんです。

先生からみたら、ほんとどうしようもないけどかわいい、みたいな感じじゃないですかね。

幼い新婦です。

御言葉の使い方、研究していきましょう。

上手に証するために覚えておくべきこと 摂理の便り

ハレルヤ!

昨日は、「証」について話していただきました。

証とは何なのか、証はどのようにするものなのか。

それで、御子の岩の話になって、正しい方向から見てはじめてその形が見える、他の方向から見たら形がありません、と先生が仰いました。

はっきりと見た人が「顔の形象がある面」と撮って見せてあげること、それが証だと仰いましたね。

僕はビデオカメラの使命をやるので、その方向から話をしてみたいと思います。

この前サッカー大会がありました。

ビデオ使命者なら、もちろん思い出に残るシーンを撮影したいと思いますね。

シュートシーンや、果敢にドリブルをするシーン、試合後にみんなが集まって感想を言っているシーン等です。

これが正しいことです。

これをあとでみたら、見た人も感動しますよね。

年末にみんなで見たら、一年の思い出として盛り上がること必至です。

では、ためしに正しくないシーンを撮影してみましょうか。

イメージしてみてくださいね。

サッカー大会は河川敷でやっています。

そばをおじさんがランニングをしています。

その姿をカメラでずっと追っていきます。

姿が見えなくなるまで。

・・・どうでしょうか(笑)

たしかにサッカー会場で起こったことを撮影していますが、正しい方向で撮影していませんね。

サッカー会場ではいろいろなことが同時に起こっていて、何を撮るかで残るものがまったく違います。

試合のシーン、応援する姿、休憩場面、炊き出し、久しぶりに会った人と話す姿、走り回る子供、具合が悪くてバスで休む人、何もすることがなくてさっさと帰ってしまう人、ランニングするおじさん、犬の散歩をする人、流れる川、青い空、空を飛ぶグライダーなどなど。

また、同じ試合をとるにしても、どういうシーンを撮るかでまったく違う光景に変わります。

名シーンを撮ろうと思うのが正しく益のあることですが、たとえば悪意のある撮影をしようと思ったらどこにフレームをあてるでしょうか。

ミスシーンやファールシーンですね。

そんなのばかりに焦点をあてて撮影するのが、御言葉にもでていた「悪評者たちが悪評する理論」です。

悪く言う人はこれがとてもうまいですよね。

だから私たちはそれに負けないくらい、もっと良い面を見られるよう、形のある方向で見られるよう、御言葉を読んで研究していきましょう。

ちなみに「どの方向で見るか」というのは、撮影の場面だけではなく、言葉を使うときにも重要なスキルになります。

たとえば次の2つの文章があります。

1、あの人は賛美は下手だが、サッカーが上手だ。
2、あの人はサッカーは上手だが、賛美が下手だ。

たぶんあなたは似たような例文を見たことがあるでしょう。

フレーミングの法則といって、同じことを言っていますが、視点が違うんですね。

1は良い面に焦点を当てているのに対して、2は悪い面に焦点を当てています。

どちらが正しくて、生産的なのかはあなたにはわかっていますよね。

どこにフレームを当てるかが重要です。

そして、先生はこれが超得意なのはご存知ですよね。

だからあなたも是非、こういった先生の精神を学んで、上手く証されることをオススメします。

祈ることと伝道すること 摂理の便り

今朝、明け方のお祈りの時間が変わったのを忘れていて、昨日までの時間に聖殿に行きました。

聖殿に入ろうとすると、入れ違いで帰る人がちらほらいました。

帰る人たちはおしゃべりをしていたんですが、なんでか昆布巻きの話をしていました。

昆布巻きです。朝起きて、僕が初めに耳にした言葉が昆布巻きだったんです。

それから僕はどうなったと思いますか?

ずっと、昆布巻きが頭から離れないんです。

お祈りをしていても、「あれはなんだったんだろう」って気になるし、会社に着いてからもことあるごとになぜか浮かんできました。

何がいいたいのかというと、

一日の初めに何を頭にインプットするかがどれほど重要なのか。

ということです。

すごい話のもっていき方でしょう。

朝起きてすぐ携帯を見る人いますけど、あれはいけませんよね。

主とのスマートフォンを取るのが先です。

そうでないとどうなるか、もうわかっていますよね。

初めの行いが終わりまでずっと続くんです。

初めが愛なら最後も愛。

初めが昆布まきなら最後も昆布まきです。

自分をよりよいところに連れて行くために、いつも主を優先して選ぶ習慣をつけたいですね。

さて、日曜日は祈りと伝道の御言葉でした。

新入生向けの御言葉でしたが、これは新入生にとって大きな祝福でしたね。

なんでかって、イエス様が一番弟子ペテロにはじめに話したのも「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」マタイ4:19でしたからね。

先生の御言葉はやっぱり聖書をベースにしていますね。

あなたがはじめに聞いた主日の主題はなんでしたか?

それをすぐに実践できましたか?

僕が初めに聞いたのは「証しなさい」でした。

しかし、聞いてもしばらくは何も証できませんでしたね。

それも何年も。

悟ることはたくさんあったんですけどね。

日常のほんのちょっとしたことからいろいろ悟りが湧いてくるので、いろいろネタはあるんです。

しかし口が重いので、まったく相手に響く証ができませんでしたね。

僕が話しても、「は?」って言われて手を耳に当てられたことが何回あったことか(泣)

昔あったことで面白いのが、みんなで旅行に行く計画を立てていたときです。

僕が「これしたら面白いな」って思ったことがあったので提案してみたんです。

まあ、ボソッと言った感じでした。

みんなは「うーん、まあそれもいいけどねえ・・・」といった感じでうやむやになって、話は先に進みました。

しばらくして、別の人、その人はとても明るい人なのですが、その人が僕とまったく同じ提案をしたんです。

「ねえ、これやってみようよ!」って。そしたらみんな「それいいね!」っていいました(笑)

そのくらい僕の話には人を引き付ける力がないんですよね。

それでも主からもらった証ネタ、啓示は携帯やノートに書き続けていました。

そうしているうちに、世の中でブログっていうのがはやりだすんですよね。

僕は文章で証するようになりました。

はじめて聞いた「証しなさい」って御言葉を、今では得意分野で実践できるようになりました。

何でも最後まで行ってみないとわからないですよね。

もちろん今でも口で人を伝道するのが夢です。

しゃべって人を感動させて、悟らせて、なんてかっこいいですからね(笑)

話は変わって、最後までいかないとわからないという流れで、先生の絵を売ってしまう人の話について。

御言葉を聞いた誰もがびっくりしたと思うのですが、あえてここでは信仰者としての是非という面からではなく、もっと冷徹な目で見た場合にその選択が得だったかについて語ってみようと思います。

彼らが絵を売った目的は、お金ですね。

それだったら、売らないでずっと持っていたほうがもっと価値が上がりますね。

摂理はこれからどんどん価値が高くなります。

摂理を悪く言う人でさえ、「先生が監獄を出てからが問題だ。彼は何か大きなことをするに違いない。摂理は拡大するに違いない」って警戒してるのに、御言葉聞いている人がそれをもっと知って期待して待っていないといけませんよね。

知らないってことがどれほど怖いか、ですよね。

ウォーレン・バフェットは買った株を10年20年持ち続けています。彼は「買った銘柄と一生を共にする覚悟」といいます。そうして世界第二の金持ちになりました。

ましてや先生からもらったものを数年で、数十年で、数百年で売って本当の価値を享受できるのでしょうか。

子供、孫、ひ孫玄孫・・・までずっと語り継いでほしいですよね。

数百年たってから「この絵はな、お前のご先祖様が功績を立てて先生から頂戴したとてもとても貴重なものなんだよ」って子供に語りついてほしいですよね。

それで子供が「いつもその話ばかり!」っていって遊びにいってしまう姿が浮かびますよね。

大きな視点でものを見なければいけませんね。

今日明日のことだけじゃなく。

現金なんて、あっというまになくなります。

とくに今は、世界中の中央銀行がお金を印刷しまくっていますから、お金の価値はどんどん下がっています。

インフレになる可能性が極めて高いのです。

100万円が1万円の価値しかなくなる、そんなことがいつ起きてもおかしくありません。

「現金で持っていることが一番危険だ」なんていう意見もあるほどです。

お金も大事なのは確かですが、結局お金なんて何かを行うための手段にすぎませんからね。

それが目的になってはいけませんね。

そして最後に、私たちが気をつけなければいけないことがあります。

先生の絵が市中に出回る、ということです。

先生の絵を見て、どういう経緯を持っているのか、誰の持ち物か、本当にもらったものなのか、買ったものではないのか、はっきり知る必要があるということです。

ますます私たちは繊細な感覚を持つことが必要になりますね。

感覚を磨いて、魂も磨いて、体も磨いて、霊も磨いて、かっこいい、素敵な勇壮で美しく神秘的な新婦になりましょう。

正しく見ると成功する 摂理の便り

正しい方向から見てこそ、正しく見える。
と仰いました。

人によっていろんなものの考え方があります。

ものの見方もそれぞれですね。

僕は満員電車が嫌いで毎日うんざりしていますけど、
御言葉で聞いた話によると、先生は満員電車に乗ると「ダイヤの原石に埋もれている」気分なんだそうですよ。

命を何よりも大切に思う先生だからこそ、そういう方向から人が見られるんですね。

先生と比べるとちょっと次元は低いんですが、正しく見ることについて面白い話があるので紹介します。

ある大富豪が、インドの片田舎を車で通っていたんですね。

道路も舗装されていない、バラックが立ち並ぶ貧困街です。

外の景色を見ながら、その富豪は「宝の山に見える」と言ったんです。

その富豪の目には何が見えていたんでしょうか。

もう一つ話しますね。

世界第二の金持ちでウォーレン・バフェットっていう人がいます。

この人がどうやって財を築いたかというと、みんなが軽視して不当に安い値段をつけられている会社の株を買って、本来の価値に戻るまで待ったんですね。

それでビル・ゲイツの次にお金持ちになりました。

正しく見るっていうのは、それほど威力のあることなんです。

(霊的に)投資しなさいって御言葉もありましたが、投資というのは、将来の価値を見込んで安いうちに買っておくということです。

さっきの富豪の例えにしても、バフェットにしても、現在の姿に目もくれず、将来の姿を見て、安い今のうちに買っておくことで成功しています。

「あの人最近霊的だから言う事聞かないと」とか「雰囲気いいから仲良くしておけばいいことありそう」ではなくて、その人の伸び代があなたの益になるんです。

今は羽振りがいいけど、あと何年ももたないかもしれない。

逆に、今はぱっとしなくても、将来大成するかもしれない。

そんな例の最たるものが、幼少期の先生ですよね。

小学校しか出ていない、田舎育ち、貧乏だし、吃音症もあって、誰も期待していませんでした。

もし、もしですよ、あのときの先生に一生懸命投資して仕える人がいたとしたら、今その人はどれだけよくしてもらえたでしょうか。

山にいたころの先生はねずみがそばを通るだけで本当に嬉しかったそうですよ。

もしその場に、あなたがいたならどれだけ飛び上がって喜ばれたかわかりませんよね。

いるだけでよかったんですよ。通るだけで喜ばれるんです。

今は人も多くなって、ただいるだけではなんのコメントもされないでしょう。

正しく見るっていうのはそういうことです。

今の先生についても、本来の価値からは遠く離れた場所にいます。

大変な今この時に、「あれしてくださいこれしてください」ではなくて、少しでも力になろうとすること。

少しそれをするだけで先生の大きな力になります。

愛の倍返し、いや10倍返しだ

御子岩の形象、いくつわかりましたか?

僕は御子、分体、聖霊様、神様、足の5つでした。

形象を探すの楽しいですね。

早くファントムとチーターもわかるようになりたいです。

あと、隠された8つ目の形象、あれが1番気になりますよね。

僕は早く見つけてまじまじと見ていたいです。

岩に様々な形象を見つける作業って、大人の遊びですよね。

たとえるなら、枯山水とかね。

または陶磁器とか、絵画とか、それに近い感覚ではないでしょうか。

だから子供にはあまりよく価値が分かりませんよね。

ただの岩、ただの砂の庭、ただの茶碗、ただの落書き。

何を見ても同じ、何を聞いても同じ、何を食べても同じ。

大トロを食べて「脂っぽい。」というのと同じです。

私たちは大人の洗練された感覚を持ちましょうね。

宝を見つけることについて、もっといろいろ書きたいことがあるんですけど、お金の例えも使いながら説明したいこともあるんですけど、今日は別の感動があって、今書かないと忘れてしまうのでそれをシェアしたいと思います。

それは、条件代価についてです。

月曜日、会社から帰ってきて部屋に入ったときに「ふとん洗濯しとくんだった」という肉的な考えと同時に、主は条件代価の方だっていう言葉が浮かんできました。

条件代価、あなたも知っていますよね。

神様は条件代価の方です。

「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」マタイ10:42

まだ新入生のときは、これ本当かなって思ったんです。

でもその時万物啓示を受けたんです。

壁にボールを当てると跳ね返ってきますよね。

あれと同じで、っていうかあの法則は神様が創ったので神様がオリジナルなんですが、ボールが跳ね返ってくるのと同じで神様にしたことは返ってくるんです。

しかも、壁に当てたボールは力が弱くなって返ってきますが、主への行いは大きくなって返ってきます。

小さな条件、大きな対価ですから。

実感ベースで話すと、先生に何かしてさしあげたとすると、先生はもう信じられないくらいの強烈なお返しをくれます。

本当です。

これを実感するにはもう行ってみる以外にありません。

人は、基本的に悪いことをされたらそれに対しては大きな反応を示しますよね。

「馬鹿」っていわれたら「お前がな」って言い返したくなるじゃないですか。

倍返し、10倍返ししたくなるじゃないですか。

でもそれがエスカレートして起こるのは戦争だけです。

私たちが挑戦すべきなのは、愛に対する反応でしたね。

愛したら、愛し返す。倍返し、10倍返しする。

それがエスカレートしたら愛の歴史が起きます。

それをどんどん行っていきたいですよね。

私たちは愛の主管圏の中で生きているんだから、主との愛の応酬をどんどんエスカレートさせて、やられたらやりかえして(笑)理想をなしていきましょう。

刈り取れるのは主がまいてくれたから 摂理の便り

過去にまいて、現在に収穫だ。

御言葉の後に説教者も話していたんですが、
私たちがまいたものもあるにはあるんですが、
それより主が私たちにまいたもののほうがずっと多いですよね。

主が私たちにまいたものを、私たちが自分のものとして刈り取っています。

それを実感するのは、何か行うときに、ぱっと御言葉が浮かんでくるときですね。

どっちにしようか悩んだとき、「あ、こんな御言葉があったからこっちにしよう」
って決めること多くないですか?

御言葉に助けられていることを実感しますよね。

一日に何百回何千回と何かを選択する機会があると思うんですが、
そのたびに私たちは御言葉で判断できるのが大きいですよね。

いつも御言葉通りにできないことはありますが、
脳にインプットしているものが良いものなので、
アウトプットも自然と良いものになってくるんですよね。

まさにこれが主に導かれているってことですよね。

御言葉がなかったらどうでしょう。

朝起きて、仕事して、帰ってテレビ見て寝る。

そういう生活だったら、どうでしょうか。

楽だけど、脳にテレビで見た映像がびっしり詰まっています。

ものごとの判断材料がテレビしかないんです。

悩みがあってもテレビから答えを探すしかないし、
人の役に立ちたいと思ってもテレビから材料を探すしかありません。

そんなの、絶対自己嫌悪に陥ると思います。

日本が自信をなくしてしまったのって、
こういうところからきているのかもしれませんね。

でも自分で気づいていない。

よくわからない苦しみから逃れるために、
もっと楽なほうに流れています。

「パンとサーカス」って言葉を知っていますか?

古代ローマの詩人が、当時の世相を風刺して使った言葉です。

ネロ帝の時、クリスチャンを大迫害したネロですね。

あの時代、権力者は民衆の支持を得るために「無償で」食べ物と娯楽を提供していたそうです。

それが民衆の堕落につながり、ローマが退廃したという説があります。

どこか現代と似ていますね。

大規模な金融緩和政策がずーっと続いています。

また、政府の政策ではありませんが、食べ物も非常に安いし、娯楽もタダのものが多いです。

お金を払うのが嫌なら一日中youtube見てたりスマホの無料アプリやってれば時間がつぶれる時代です。

近い将来、どうなるでしょうね。

御言葉を読んでいても、少しそういうのが頭によぎる場面がありました。

あ、でもこれは何も心配することではありませんよ。

たまにいうんですが、
これは一方向から見たら退廃なんですが、
霊的に見れば転換期ということです。

御言葉の学び初めに習いましたよね。

だから何も悲観することはありません。

もちろん遊んでばかりいる人にとってはどんどん退廃していく流れに
身を任せるしかないのですが、あなたは違いますよね。

世の中の激しい濁流にも流されない強い芯があるからです。

摂理の御言葉を聞いているからです。

御子と生きているからです。

主がまいてくれた種があるので、それぞれに刈り取るものが多いので、
飢饉が起きてもその実を取って食べて生きていけます。

それを飢えている人にあげたら、喜ばれますね。

その人も救われます。

救いの御言葉だからです。