実践についての御言葉でした

「実践しなさい」と怒られました。

いままで全て主の条件で成されたもんだから、私たちの中に「何もしないでももらえる」という認識があるのかもしれませんね。

何もしないでもらえたのは子どもの次元で、だからといってひたすらタスクをこなすだけだとしもべの次元。

しかし今は恋人の時代なのだから、子やしもべとして立派にやれるわけでもなく、主は「どれだけ恋人なのか」という測りざおで見ていらっしゃると思います。だから、何もしないというのは子の扱いを受けるというより、ヒモ…?

ヒモ新婦。これは僕が作った言葉ですが、どうですか?

先生は既成をあしざまに言うことがありますが、もしかしたら、もう大きくなったのにいつまでも変わらないから、気持ちが悪いのかもしれない。「いつまで親のすねかじってんだ」みたいな。そんなことを思いました。

何よりも命が救われることを願う神様

今朝は、命に向かう神様の大きな心情を伝えてくださいました。

なにより1人1人を大切に思っている神様が、命が1人いなくなるだけでどれだけショックで寝込んでしまうかを話してくださり、そして新しい命が来ることでどんだけ宴会が盛り上がるかを力説してくださいました。たぶんそういう話でした。

真理の中で自由な摂理だから、命が増えるほど様々なことができますね。

世の中と違って、常に、すごいスピードで変化していきます。

人が中心にいる組織や会社ではこうはできません。なぜなら古い人が組織を掴んでしまうからです。

このように思うのは、私が東芝ビルにたまに行くからです。

一階のスタバ、小さいけどわりと空いてること多いから。

御言葉:仕事より愛を

今日の御言葉は、「働くことと」と「主を愛すること」の順序についてでした。

「働くこと」が優先になってしまうと、あとで虚しくなりますね。

「頑張るほど孤独になる病」は摂理で熱心に走る人なら誰でもかかったことがある病気です。

社会でも、大企業の社長が孤独な生活をしていたり、昔モーレツ社員と言われた人たちの孤独死がニュースで取り上げられることがあります。

成功という結果だけを望んで働くとつらいです。

しかし、やっていることが主に届いていて、見えないけど喜んでくれてるって実感を持てると、甲斐を感じて続けることができますね。

主を綱を掴んで登る

聖餐式の御言葉良かったですね。

あなたはどんなことを捨てようと思いましたか?

私は「古い認識」を捨てたいと思いましたね。
過去、いろいろなことがあって認識が固まっていることを感じたので、全部捨てて、もっと楽しく摂理を走っていきたいなあと思いました。

今朝の御言葉では、いろいろな話をしてくださいました。

重ね塗りした油絵の作品のようでした。

以下は、別々に語られているような御言葉を接続詞などでつなげてみたものです。

主の綱を握って、限界を超えて登りなさいと仰いました。
70日のお祈りを限界を超えて実践したことで悪が無くなったので、セウォル号が引き上げられ、天の巡回のしるしが起こりました。
そして、聖殿の土台の上に巡回が起こったように、5月の韓国大統領選挙の後で、使命者が備えられた道を行きます。
つまり、残り10ヶ月は大変化の時になります。
だから、過去を見て「できない」というな。古い認識を葬れ。

韓国大統領選のためにも続けて祈りたいですね。

罪を抜け出して命の主管圏で生き続ける

もうすぐ聖餐式ですね。

今日は罪の御言葉でした。

例として、たばこを挙げて話してくださいましたね。愛煙家にとって、禁煙はものすごくつらいことなのだそうです。

会社にもたばこ好きがいますが、昨日「あー、健康診断の結果わるいわー。気晴らしにたばこでも吸ってくっか」といっていました。

私は30代ですが、歳をとるほど社内でのおしゃべりに健康の話がだんだん多くなると実感しています。若い時の生活習慣が体に現れてくるからですね。

たまに怪我をして病院に行くと、お年寄りが病気の話で盛り上がっている場面に出会います。

「あら、あなた腰なの?私は膝なのよー」

すごく楽しそうです。

生活習慣が将来の健康を決めるように、罪もそうです。習慣化していると気づきませんが、後でとてもつらい現実にぶつかることになります。

箴言では松の話がありました。月明洞の松は200年300年、神様が責任を持って育ててくださり大きくなるんだと仰いました。

そのように、私たちも罪から抜け出して命の主管圏でいつまでも暮らせることに感謝ですね。

一部だけを見て判断しないという御言葉でした

先生を正しく見なさいと仰いました。

1990年代の月明洞開発の時には、先生の一部分だけを見て躓いた人が多かったといいます。

しかし今になって考えれば、月明洞が無ければ聖殿建築の御働きも起きませんでした。さらに先生のお歳で今から建築に携わることは難しいため、摂理歴史は永遠な借家歴史となってしまい、摂理をよく思わない人たちに「摂理はなぜか固定資産を持ちたがらない」と評価されるところでした。

先生がその時々で話すことが変わるのは、全体を見ているからだといいます。

私は先生のライブの説教を配信でしか聞いたことがありませんが、突然話が変わったり、もう、ものすごいです。普段見ている先生の映像はとてもスマートにわかりやすく編集してくださっています。

ライブの説教は、すごすぎます。

今はまた変わられているのかもしれませんが、一年後が楽しみですね。

旧時代より新時代の方が大きな歴史を成す

愛の級に関する御言葉でした。

旧時代より新時代の方が、愛の級が勝り、より大きな歴史をなしたと。

すごく現実的な話をすると、ユダヤ教は昔からあまり伝道していなかったといわれています。一方でキリスト教はどんどん伝道したので、普通に考えても、キリスト教の方が大きな歴史を成すはずです。

ユダヤ教がなぜあまり伝道をしなかったのかはよくわかりませんが、根強い選民思想が他の国への宣教をとどまらせたのかもしれませんし、当時の世界観が小さかったせいもあるかもせれませんし、隣国の脅威が宣教どころでは無かったのかもしれません。

もしかすると、ユダヤ教の教理が「律法」だったので、信じている人が「素晴らしい律法だ!これをみんなに伝えて、みんなで楽しく律法生活をしたい!」というノリにならなかったのかもしれません。

ともかく、ユダヤ教はあまり伝道しなくて、今でもドメスティックな信仰生活をしています。

時代は新約になって、イエス様が福音を持って現れ、今まで御言葉が伝えられる資格が無かったような人にまで宣べつたえて回ります。

身内だけで信仰生活をしていたユダヤ教徒はそのやり方が気に入りません。「何の権威でそんなことをしているのか」などと問い詰めて、ついには罪に定めて殺すまでしてしまいます。

しかし、そこで福音の熱が冷めることはなく、ペテロが幻を見て異邦への福音の扉も開かれると、世界中に福音が伝えられるようになりました。2000年経った今でも熱心に宣教されている方がたくさんいらっしゃいます。

かくして、キリスト教はユダヤ教よりずっと大きくなりました。

それより大きくなる歴史がある、ということが聖書には書かれています。

以上のことを考えると、それは今までとはまったく違った認識をもち、違ったやり方で世界に広まって行くのではないでしょうか。

古いものは葬らなければなりませんね。

時によって罪か義かが分かれることもある。

時について深い話をしてくださいました。

時によって罪になるか義になるかというのは、天の法だけでなく地の法にも言えることで、たとえば昔は刃物を持って外を歩くことが男の勲章であった時代がありました。今は銃刀法違反です。

一番身近なところでは、横断歩道を赤信号の時に渡ると不法ですが青信号の時に渡ると義(?)ですね。

こんなふうに、あれこれと考えるといろいろ出てきます。そこから御言葉につなげると、証になりますね。

主日の御言葉では、「言葉をうまくしなさい」ともおっしゃいました。

はっきりわかって、聞く人に火をつけられる言葉を話したいですね。

そして、言葉より実践だ。

自らやりなさいって御言葉だったけど、雨降ってて微妙

自ら行うことについて話してくださいました。

新年度になりましたね。

変わったから、自ら思い切り実践したい!

しかし、なんかこう、スッキリしないっすよねえ。

そう、天気が悪い。天気のせいだ。

空気は冷たいままで、いつになったら春になるんだろうか。

しかも雨が降り続けてるのがすげー微妙。

思い描いてた新年度というのは、新年度とともに快晴、桜は満開。

万物も我々を祝福し、桜吹雪の中を爽やかに主の御言葉を伝える、というイメージで、希望を持って今まで頑張ってきたんですけど。

ま、現実はこんなもんすよね。はー、マジやる気にならない。

という、環境のせいにして自分からやらない人。

かなりオーバーにしましたが、さっき外に出て「いつまでも寒いなあ」と思っていろいろ考えたんですね。

そしたら、先生がいらっしゃってからも、自らやらないうちは微妙なままなんだということがわかりました。

環境を治めて、自ら行いたいですね。

そうそう、昨日の御言葉は良かったですね。

どれだけ古いものを捨てて主とピッタリくっつける人になるのか、挑戦ですね。

周辺の話ですが、昨日賛美している時のことです。

例の、何回も同じフレーズを繰り返す場面があるじゃないですか。

ああなると、私なんかは(あ、もう1回繰り返すのか。え、もう1回?うそ、まだやるの?やれやれ、もう座ろうかな)といったことを思っているわけですが、映像を見てて、団長のフォローの仕方が素晴らしいなと思ったんです。

みんなの声や楽器がアドリブに合わせられなくて火が冷めそうになると、すかさず団長がシャウトはさんだり、常に説教者のほうを見て合わせようとしていて、あれはいつもピッタリくっついているから出来ることだと思いました。

たぶん自分が歌手やってるからそういうところを見てたんだと思います。

先生はもっと自由です。それは、その作られた歌からもわかりますね。

だから、もっと神経を使って考えを合わせたいですね。