再創造の御言葉でした

再創造についての御言葉でした。

主の創造と、私たちの再創造が1つになってこそ運命が変わるんですね。

このことについて1つ悟ったことがあったのでお話しします。

ゴールデンウィークで実家に帰ってきました。

実家はとにかく田舎なわけです。どこに行くにも車がなければなりません。

しかし、東京にいると車に乗りませんから、運転をするのがちょっと怖いわけです。

それで、母の自転車を借りて出かけることにしました。前と後ろにカゴが付いている、非常に重いママチャリです。

田舎をなめてました。

東京にいる「移動」の感覚で出かけたものだから、どこまで走っても原っぱばっかりでなかなか目的地に着きません。しかもママチャリはとっても遅い。

自転車をこいでいるうちに、息が上がってきました。

こんな大変な思いをしてまで出かけるんじゃなかったと思ってましたが、ふと、自分の息に意識が向きました。

吐いて、吸って、というのを繰り返しています。

それで、「息は、吐くのと吸うのが1つになってこそ正常なんだなあ」と思いました。

どちらかが欠けてしまうと正常な呼吸とはいえません。
死んでしまいます。

そのように、古いものを捨てることと理想的なものを得ることはセットなのだと気付きました。

これが自然にできていることが正常なことなんだなと思いました。

私たちは古いものを捨てる時に未練がありますが、それは「せっかく吸った空気を吐きたくない」というようなものなんですね。

準備期間の御言葉

今朝の御言葉は、年始に聞いて「毎日思い出さなければならない」とまで言われた、先生が競争してバッタに助けられる御言葉を忘れがちになっているGWにぴったりの話でした。

御言葉に出てきたノアもエステルも10人のおとめ(のうちの5人)も、将来のことをわかって準備を周到にして王を手に負える人になっていました。

「王を手に負える」ってすごい言葉ですね。

エステルは王のために宴会を開いて楽しませ、厚遇を受けます。

そのように私たちは先生をもてなすことができるのか、それは個々人の次元によると思いますが、私はぜんぜんできてません。

月明洞では準備が着々と進んでいるようです。花の祝祭をやっていますが、これも予行練習だと考えて準備されてるんでしょう。

冷めないために変化が必要だけど、変化はリスクが伴う

次元を上げなければ冷めてしまってつらくなるが、次元を上げようとすれば不安や焦り、また仕事に溺れて冷めてしまうこともあると仰いました。

御言葉を聞いても世間を見てもも「変化」は重要なキーワードですが、変化ってとても繊細なもので、新しい分野にチャレンジするためにどうしてもズレたり間違ったりする可能性が出て来ます。

だから「続けて変化する」って普通に考えると成功確率かなり低いんですよね。

1回目の変化が90%で成功するとして、2回目の変化も90%で成功するとしたら、2回とも成功する確率って何パーセント?計算めんどくさい。

でも、変化しようとするたびにどんどん確率が減っていくはずです。確率論ってそういうものです。

ではどうするか。御言葉を伝えてくださった方は先生の映像を見て核を学んだのだそうです。

大胆さに加えて計算をしっかり

計算についてのコーチでした。

特に男性は、大抵なんの計算もなしに夢を追って無謀なことして大損しますから、女性的な視点も持って、現実的にしっかり計算して動くことも必要ですね。

「主にあっては、あなた方の苦労がむだになることはない」と聖書には書いてあります。

しかし、苦労したわりに自分の願っていたことがダメになることも、実際にはあります。

ただ、箴言にもありましたが、そういう時に「祝福のチケット」でもらっていることがあります。

チケットは、時が来ないと有効になりません。

ライブのチケットを持っていたとして、いくら早く観たいからといって、チケットを使うとたちまちアーティストが家までやって来て演奏してくれる、というわけにはいきません。

チケットはライブ当日に有効になるもので、それまでは盗まれないように、また身内に勝手にメルカリで転売されないように大事に持っておく必要があります。

このチケットを持っていながら、「なんだこの紙切れ」といって捨ててしまう人を何人か見て来ました。また、チケットをもらっていながら「何ももらえない…」と疎外感を感じる人もいました。

そうではないことをわかって、価値をわかって守っていきたいですね。

そう、御言葉の冒頭で「蛆虫が怖くて醤油が作れるだろうか」ということわざが出て来ました。

これは韓国のことわざだそうで、「すべきことを貫くためには、障害に怖気づいてはいられない」という意味だそうです。

そして、このことわざのことを調べていた時、こんなことわざも出て来ました。

「南京虫を殺そうとして藁葺(わらぶ)き屋三間みな燃やす」(ピンデ チャブリョダ チョガサムガン タ テウンダ)

これは逆に、「目障りな小事にかかずらわっている間に、思わぬ損失を招く」という意味だそうです。

このことわざを見て、私は先生のことを思い出しました。

(先生、南京虫が出まくる藁葺きやを壊してたよな…)

先生のされたことって、韓国の伝統的なことわざに対する挑戦という意味も含まれていたのかもしれません。

なぜなら、先生が、南京虫の出て嫌だった藁葺きやを壊し、さらにもっと良い家を建ててしまったからです。

そう考えると、当たり前に聞いている先生のエピソードがより深く聞こえて来ますね。

うまくいかない原因を考える姿勢を先生に見る

「何となくうまくいかない」の原因を探しなさいとおっしゃいました。

先生はご自身のいろんな誤りを話してくださいますが、そのどれも神様のためにやっていた事でした。

神様のために岩を建てようとして崩れ、神様のためにアナウンサーになろうとしたけど死刑宣告を受けました。

普通の人だったら躓くところですね。

就活してただけで死刑宣告なんて、私だったら暴れると思います。

「人生無理ゲー過ぎワロタwww」といって何もかも諦めると思います。

しかし、先生はそこでさらに自分から神様の方に近づいて、その切実な心情に気がつかれるんですね。

そして間違いを認めて、自分に向けられたより大きな御心を見つけました。

もちろん、このような過酷な出来事は先生にしか起こらないと思います。特別に育てようとしているから神様も厳しくされるのだと思います。

それにしても、先生が成ろうとしていたアナウンサーの使命を、今は他の人にやらせているのも驚きです。アナウンサー部を作ってしまいました。

普通やらないですよ、自分が果たせなかった夢を他の人にやらせるなんて。

私だったら妬んで全力で止めますね。「あいつらの活動をぶち壊しにしてやるぜえええ!!!」と言います。

歌もそうですね。先生はほんとに長らく賛美の点数が低かったそうですが、それでも聖歌隊や歌手、楽器隊を作ってみんなが自由にできるようにしています。

世間体を考えるなら、そういうのを作ってしまうと自分が恥をかく機会が多くなるから、やらせないほうがいいです。

それなのに先生がこのようなことをできてしまうのは、あらゆる困難に打ち勝ったからです。

先生の練達は凄まじいものがありますが、縮小すれば似たようなことは誰にでも起こり得ます。

困難にあって蹟かずに「そんなはずはない」と言って自分の間違った神様観を捨ててこそ、自分は新しい次元に行けるし、他の人の活躍の場も作れるんですね。