準備期間の御言葉

今朝の御言葉は、年始に聞いて「毎日思い出さなければならない」とまで言われた、先生が競争してバッタに助けられる御言葉を忘れがちになっているGWにぴったりの話でした。

御言葉に出てきたノアもエステルも10人のおとめ(のうちの5人)も、将来のことをわかって準備を周到にして王を手に負える人になっていました。

「王を手に負える」ってすごい言葉ですね。

エステルは王のために宴会を開いて楽しませ、厚遇を受けます。

そのように私たちは先生をもてなすことができるのか、それは個々人の次元によると思いますが、私はぜんぜんできてません。

月明洞では準備が着々と進んでいるようです。花の祝祭をやっていますが、これも予行練習だと考えて準備されてるんでしょう。

冷めないために変化が必要だけど、変化はリスクが伴う

次元を上げなければ冷めてしまってつらくなるが、次元を上げようとすれば不安や焦り、また仕事に溺れて冷めてしまうこともあると仰いました。

御言葉を聞いても世間を見てもも「変化」は重要なキーワードですが、変化ってとても繊細なもので、新しい分野にチャレンジするためにどうしてもズレたり間違ったりする可能性が出て来ます。

だから「続けて変化する」って普通に考えると成功確率かなり低いんですよね。

1回目の変化が90%で成功するとして、2回目の変化も90%で成功するとしたら、2回とも成功する確率って何パーセント?計算めんどくさい。

でも、変化しようとするたびにどんどん確率が減っていくはずです。確率論ってそういうものです。

ではどうするか。御言葉を伝えてくださった方は先生の映像を見て核を学んだのだそうです。

大胆さに加えて計算をしっかり

計算についてのコーチでした。

特に男性は、大抵なんの計算もなしに夢を追って無謀なことして大損しますから、女性的な視点も持って、現実的にしっかり計算して動くことも必要ですね。

「主にあっては、あなた方の苦労がむだになることはない」と聖書には書いてあります。

しかし、苦労したわりに自分の願っていたことがダメになることも、実際にはあります。

ただ、箴言にもありましたが、そういう時に「祝福のチケット」でもらっていることがあります。

チケットは、時が来ないと有効になりません。

ライブのチケットを持っていたとして、いくら早く観たいからといって、チケットを使うとたちまちアーティストが家までやって来て演奏してくれる、というわけにはいきません。

チケットはライブ当日に有効になるもので、それまでは盗まれないように、また身内に勝手にメルカリで転売されないように大事に持っておく必要があります。

このチケットを持っていながら、「なんだこの紙切れ」といって捨ててしまう人を何人か見て来ました。また、チケットをもらっていながら「何ももらえない…」と疎外感を感じる人もいました。

そうではないことをわかって、価値をわかって守っていきたいですね。

そう、御言葉の冒頭で「蛆虫が怖くて醤油が作れるだろうか」ということわざが出て来ました。

これは韓国のことわざだそうで、「すべきことを貫くためには、障害に怖気づいてはいられない」という意味だそうです。

そして、このことわざのことを調べていた時、こんなことわざも出て来ました。

「南京虫を殺そうとして藁葺(わらぶ)き屋三間みな燃やす」(ピンデ チャブリョダ チョガサムガン タ テウンダ)

これは逆に、「目障りな小事にかかずらわっている間に、思わぬ損失を招く」という意味だそうです。

このことわざを見て、私は先生のことを思い出しました。

(先生、南京虫が出まくる藁葺きやを壊してたよな…)

先生のされたことって、韓国の伝統的なことわざに対する挑戦という意味も含まれていたのかもしれません。

なぜなら、先生が、南京虫の出て嫌だった藁葺きやを壊し、さらにもっと良い家を建ててしまったからです。

そう考えると、当たり前に聞いている先生のエピソードがより深く聞こえて来ますね。

うまくいかない原因を考える姿勢を先生に見る

「何となくうまくいかない」の原因を探しなさいとおっしゃいました。

先生はご自身のいろんな誤りを話してくださいますが、そのどれも神様のためにやっていた事でした。

神様のために岩を建てようとして崩れ、神様のためにアナウンサーになろうとしたけど死刑宣告を受けました。

普通の人だったら躓くところですね。

就活してただけで死刑宣告なんて、私だったら暴れると思います。

「人生無理ゲー過ぎワロタwww」といって何もかも諦めると思います。

しかし、先生はそこでさらに自分から神様の方に近づいて、その切実な心情に気がつかれるんですね。

そして間違いを認めて、自分に向けられたより大きな御心を見つけました。

もちろん、このような過酷な出来事は先生にしか起こらないと思います。特別に育てようとしているから神様も厳しくされるのだと思います。

それにしても、先生が成ろうとしていたアナウンサーの使命を、今は他の人にやらせているのも驚きです。アナウンサー部を作ってしまいました。

普通やらないですよ、自分が果たせなかった夢を他の人にやらせるなんて。

私だったら妬んで全力で止めますね。「あいつらの活動をぶち壊しにしてやるぜえええ!!!」と言います。

歌もそうですね。先生はほんとに長らく賛美の点数が低かったそうですが、それでも聖歌隊や歌手、楽器隊を作ってみんなが自由にできるようにしています。

世間体を考えるなら、そういうのを作ってしまうと自分が恥をかく機会が多くなるから、やらせないほうがいいです。

それなのに先生がこのようなことをできてしまうのは、あらゆる困難に打ち勝ったからです。

先生の練達は凄まじいものがありますが、縮小すれば似たようなことは誰にでも起こり得ます。

困難にあって蹟かずに「そんなはずはない」と言って自分の間違った神様観を捨ててこそ、自分は新しい次元に行けるし、他の人の活躍の場も作れるんですね。

最高のものをくださる神様

最高のものをくださる主だと仰いました。

どうして最高なのか、箴言でも話してくださいました。

自分の価値がどれほど大きいのかを感じさせる内容でしたね。

われわれはとても貴重な存在なのです。

だから、たとえ隣の兄弟が、見た目は「あの兄弟、どうだろう」と思うとしても、また、たとえしょうもない話ばかりしているのだとしても、それは間違った判断だということです。

本当はものすごく価値があり、あまりにも尊く尊い方でおわします。

だから見た目で判断してしまったことを悔い改めて、古い認識を葬らなければなりません。

自分が変化してこそ現実も変わる

変化についての御言葉で、自分が変われば現実も変わるのだと仰いました。

私たちが知っている現実はほんのわずかです。

たとえば、高校生から大学生になったときに「わあ、大学ってこんなところなんだ」と思いましたし、大学生から社会人になった時にも「わあ、社会ってこんなところなんだ」と思いました。会社を辞めたら、「わあ、老後ってこんな現実なんだ」と思うことでしょう。

自分が変わるたびに、世界が変わることを何度も体験しています。

なにより、主を知らなかった時から主を知ってからが一番変わりました。

私は今でも、礼拝を捧げる時などに「この歳になって、このようにたくさんの人たちと一緒にいることになるとは、思ってもみなかったなあ。」と思う時があります。

礼拝時には後ろにいることが多いのですが、後ろからみんなの後頭部が目に入ると、(なぜ、この人と一緒にいることになったのだろう。)と不思議で仕方ない時があります。あやうくみんなに「いったいどういうわけで、5年も10年も一緒にいるのかね?」と聞いてしまいそうになります。

本当に感謝なことです。

いろいろな現実があって、そのどれかに私たちは属しています。

中には、先生が今いらっしゃるような場所で生きる人たちが見ているような、そのような現実もあります。

どの現実に属するのか、自分次第であることをわかって、良い方に変化したいですね。

古い自分を捨ててこそ、新しく変化し復活すると、昨日の水曜礼拝でも話していました。

先生の古い家を壊す映像も見ましたね。

古いものを捨ててこそ理想的ですが、普通に考えたらもったいないです。未練があります。先生のされたことを自分もできるかというと、なかなかできそうにありません。

たとえば、ポケモンでずっと育てていたピカチュウを簡単にライチュウに進化させられるかというと、未練がありますね。なぜならピカチュウはかわいいからです。しかしライチュウになってこそもっと強く、理想的です。

なんでポケモンの話になったのか、よくわかりません。

波長に関する御言葉でした

今朝の御言葉は波長に関する話でした。

この御言葉を伝えてくださったのは、穏やかな波長で、天もメンバーも和ませる方だったので、そういうところに長けていたからそのような御言葉を神様が与えたのかもしれません。

考えの波長はとても大事です。

特に韓国や日本は世界トップクラスの「空気を読む民族」なので、波長が違えば同じことを言っても別の意味として捉えられてしまうことも多いです。

波長が悪いとどんなに正論を言っても反論されるだけだし、波長が良ければたとえ話していることのロジックがめちゃくちゃでも理解してもらえます。

そういう人いますよね。なんかめちゃくちゃなのに、みんなから「ああ、あの人はそういう人だから」って許されている人。

真理はロジカルな部分だけではないということでしょう。

波長を良くすることも大事です。

科学では、光の波長が違えば色が大きく変わります。

考えの波長にも同じ性質があるのだとすれば、波長が違うとその姿もまったく別のものに見えるのかもしれませんね。

実際に赤い色の脳や青い色の脳の話もありましたし。

アウトドアブランドのスノーピークの社長さんは、五感を正常にして仕事をするために時折キャンプに行くそうです。

確かに、自然の中に身を置くと感覚が研ぎ澄まされますね。波長が正常になって来ます。

では、どうやったら波長が変えられるのか。私はその答えについてほとんど知りませんが、箴言では「心の門を開けてこそ通じる」ことについて話してくださっていました。

運命についての御言葉でした

運命を一番大きく左右するものについて話してくださいました。

主が運命を変えてくださったことに感謝ですね。

誰でも自分の運命は自分で決めたいですが、人生というゲームは自由度が高すぎてちゃんと教えてくれる人がいないと方向を間違えてしまいますね。

しかも、私おっさんの経験と周りを見た限りでは、たとえ若い時は自由でも、ある時を境に可能性がぎゅぎゅっと狭まってきて選択肢がどんどん減ってくることを感じます。年齢を重ねるにつれ、何をするにも今まで立てた条件から展開して行くことになります。

そうなることに備えて、若い時から条件を立てておいたほうが良いですね。

このことを聖書で話すなら、ノアの洪水のようなものです。洪水が起こるまでは自由なんですが、ある日を境に雨がザーザー降り続けてすべて埋もれてしまいます。だから、そうなる前に、雨に耐えうる箱舟を作っておけと。

そういう意味でも、私はブログを続けておいてよかったなあと思うことがたびたびあります。

文章が書けることで、歳を取っても、どこにいても、できることがたくさんあるからです。

そして、もっといろいろやっておけばよかったなあと心残りなこともあります。それが何かはないしょ。

先生はすべて未練なく行ってきました。先生は若い時に御言葉を掴み、行なって来られました。

だから、普通だったらおじさんになってからは可能性がないスポーツ分野、たとえばサッカーを先生は40歳から始めて活躍しましたし、70歳で作曲をしたり、絵を描いたりジャズピアノ弾いたりダンス踊ったりスキーしたり(以下略)自由でした。

御言葉を中心にしたから、他のものは添えて与えられ、復活させることができたんですね。

間違ってももう一度立ち上がる勇気についての御言葉でした

今朝は、聖霊様が、間違ってももう一度立ち上がって行おうと励ましてくださいました。

とても温かい言葉ですね。

世の中でもきれいごととしてはよく言われますが、実際に十字架を負う覚悟でそう言ってくれる方はなかなかいませんね。

昨日はテドク牧師の話を聞きましたが、そこでは昔先生が「山を動かす信仰」という聖句を間違って解釈して、山で一生懸命お祈りしていたなどのエピソードを話してくださいました。

そのように1つずつ体験したからこそ、違うことは違うと言えるし、はっきりわかって伝えられますね。

やってみると想像と違うことは山ほどあります。

野球の試合を見てると簡単にヒットを打っているように見えますが、いざ自分がバッターボックスに立ってバットを振ってみるとかすりもしないものです。

現実世界ではこのようなことがたくさんあります。

本当に、自分が知っていたことはわずかでしかなかったということを感じざるを得ません。

だから、理論と実際が違った時にどう対処するかがその人の人格を表すと言えますね。

既成タイプ「私が間違ったわけじゃない。たまたま運が悪かっただけだ。私の認識は正しいから、そのうちうまくいく。」

悪評者タイプ「なんだよ。あんなふうに言ってたけど全然その通りにならないじゃん。みなさーん、あの人の言ってること、嘘ですよーwww」

日本人タイプ「俺はダメなやつだ…もう諦めよう。」

先生タイプ「やり方を変えてもう一度やってみよう。」

どの道を行くかは自分の自由意志で、多くの人が楽な道を行こうとしますが、狭き門から行く人が、天のものをすべて得るんですね。

間違いはあまりしたくないものです。ただ、たとえ間違った時でもその責任を自分でとれると、天の信頼度がめっちゃ上がります。だからどっちにしろお得です。

主の御名で祈ることについての御言葉でした

いつも言われていることですが、主の御名で祈ることについて、改めて教えてくださいました。

ペテロが例に出されていましたね。イエス様の生前には、ペテロはイエス様を人間的に好きではあったものの、価値がわかりませんでした。

価値がわからなかったものだからイエス様に余計なことを言って「サタン」とまで言われるし(‭‭マタイによる福音書‬ ‭16:23‬)、イエス様を否定するし(‭‭マタイによる福音書‬ ‭26:34‬ )、しかもそれをマタイとかルカがちゃっかり記録に残してて聖書に載っちゃって、かなり恥ずかしい人でした。しかしイエス様をはっきりと悟ってからは目覚しい活躍をされました(使徒行伝)

人間的に考えれば、黒歴史のところは隠すべきだしペテロは一番弟子なんだからそれも可能だったのではないかと思います。

もし、私の恥ずかしい過去が記録に残ってしまうとしたら、全力で抹消しようとすると思います。「金ならいくらでも払う、だから頼む!なかったことにしてくれえ!」って言うかもしれないよ。あなただったらどうする?「やめてー!」て言う?

しかしペテロはそういったことはしませんでした。ちゃんと聖書に残っていますね。

これは私の想像ですが、ペテロは自分に起こった変化を後世に残すため「記録しておいてくれ」って周りの弟子たちに言ったのではないでしょうか。

このペテロのように、私たちも前半期は先生を人間的に見て、好きで、ついて行きました。その認識がはっきり変わってこそ、大きな働きができるのだと思います。