旧時代より新時代の方が大きな歴史を成す

愛の級に関する御言葉でした。

旧時代より新時代の方が、愛の級が勝り、より大きな歴史をなしたと。

すごく現実的な話をすると、ユダヤ教は昔からあまり伝道していなかったといわれています。一方でキリスト教はどんどん伝道したので、普通に考えても、キリスト教の方が大きな歴史を成すはずです。

ユダヤ教がなぜあまり伝道をしなかったのかはよくわかりませんが、根強い選民思想が他の国への宣教をとどまらせたのかもしれませんし、当時の世界観が小さかったせいもあるかもせれませんし、隣国の脅威が宣教どころでは無かったのかもしれません。

もしかすると、ユダヤ教の教理が「律法」だったので、信じている人が「素晴らしい律法だ!これをみんなに伝えて、みんなで楽しく律法生活をしたい!」というノリにならなかったのかもしれません。

ともかく、ユダヤ教はあまり伝道しなくて、今でもドメスティックな信仰生活をしています。

時代は新約になって、イエス様が福音を持って現れ、今まで御言葉が伝えられる資格が無かったような人にまで宣べつたえて回ります。

身内だけで信仰生活をしていたユダヤ教徒はそのやり方が気に入りません。「何の権威でそんなことをしているのか」などと問い詰めて、ついには罪に定めて殺すまでしてしまいます。

しかし、そこで福音の熱が冷めることはなく、ペテロが幻を見て異邦への福音の扉も開かれると、世界中に福音が伝えられるようになりました。2000年経った今でも熱心に宣教されている方がたくさんいらっしゃいます。

かくして、キリスト教はユダヤ教よりずっと大きくなりました。

それより大きくなる歴史がある、ということが聖書には書かれています。

以上のことを考えると、それは今までとはまったく違った認識をもち、違ったやり方で世界に広まって行くのではないでしょうか。

古いものは葬らなければなりませんね。

時によって罪か義かが分かれることもある。

時について深い話をしてくださいました。

時によって罪になるか義になるかというのは、天の法だけでなく地の法にも言えることで、たとえば昔は刃物を持って外を歩くことが男の勲章であった時代がありました。今は銃刀法違反です。

一番身近なところでは、横断歩道を赤信号の時に渡ると不法ですが青信号の時に渡ると義(?)ですね。

こんなふうに、あれこれと考えるといろいろ出てきます。そこから御言葉につなげると、証になりますね。

主日の御言葉では、「言葉をうまくしなさい」ともおっしゃいました。

はっきりわかって、聞く人に火をつけられる言葉を話したいですね。

そして、言葉より実践だ。

自らやりなさいって御言葉だったけど、雨降ってて微妙

自ら行うことについて話してくださいました。

新年度になりましたね。

変わったから、自ら思い切り実践したい!

しかし、なんかこう、スッキリしないっすよねえ。

そう、天気が悪い。天気のせいだ。

空気は冷たいままで、いつになったら春になるんだろうか。

しかも雨が降り続けてるのがすげー微妙。

思い描いてた新年度というのは、新年度とともに快晴、桜は満開。

万物も我々を祝福し、桜吹雪の中を爽やかに主の御言葉を伝える、というイメージで、希望を持って今まで頑張ってきたんですけど。

ま、現実はこんなもんすよね。はー、マジやる気にならない。

という、環境のせいにして自分からやらない人。

かなりオーバーにしましたが、さっき外に出て「いつまでも寒いなあ」と思っていろいろ考えたんですね。

そしたら、先生がいらっしゃってからも、自らやらないうちは微妙なままなんだということがわかりました。

環境を治めて、自ら行いたいですね。

そうそう、昨日の御言葉は良かったですね。

どれだけ古いものを捨てて主とピッタリくっつける人になるのか、挑戦ですね。

周辺の話ですが、昨日賛美している時のことです。

例の、何回も同じフレーズを繰り返す場面があるじゃないですか。

ああなると、私なんかは(あ、もう1回繰り返すのか。え、もう1回?うそ、まだやるの?やれやれ、もう座ろうかな)といったことを思っているわけですが、映像を見てて、団長のフォローの仕方が素晴らしいなと思ったんです。

みんなの声や楽器がアドリブに合わせられなくて火が冷めそうになると、すかさず団長がシャウトはさんだり、常に説教者のほうを見て合わせようとしていて、あれはいつもピッタリくっついているから出来ることだと思いました。

たぶん自分が歌手やってるからそういうところを見てたんだと思います。

先生はもっと自由です。それは、その作られた歌からもわかりますね。

だから、もっと神経を使って考えを合わせたいですね。

御言葉を聞く姿勢について

御言葉を悟る段階について話してくださいました。

今夜も金曜プログラムがありますが、そこで伝えられる御言葉にも該当する話ですね。

もしかすると、普通に聞いたら今まで聞いたことのある話もあるかもしれません。

しかし、御言葉をどう感じるかは個々人がどう準備したかによるし、そもそも聞く側の準備次第でどんな話になるのかも変わってくると言います。

そして、それは個人だけによらず、国単位でも起こります。

国によって個性が違うせいか、同じ人が伝えるのだとしても、韓国で話している時と台湾で話している時、日本で話している時では雰囲気が全然違うもんだなあと、私は感じています。

自己主観を捨てなさいという御言葉の意味

自己主観が強い人について話してくださいました。

御言葉では「自分の主観を捨てなさい」とよく言われますが、それは「全能なる主の御言葉を受け入れないとは、いい度胸してるじゃないか。」という意味ではありませんね。

愛です。私たちを悪から守りたいという意味もあると思います。

あえて悪の立場で話をするなら、自己主観が強い人ほどビジネス的に楽だと言われています。

なぜなら、広告費をたくさんかけてわざわざ誘導しなくても、相手の主観に合わせた商品を見せれば勝手に興奮して買っていくからです。利益率が高い。マジサイコー。

どれだけ実践したら先生と一緒にいられると感じられるのかを考える

実践に関する御言葉でした。

先生が出てこられるまでもう少しですが、先生はこの10年間、あの環境でも本当に様々なことをされてきました。

月明洞も続けて開発され、世界中に教会があって、回復したエバもいて、新婦っぽい人たちもなんやかんやでいろいろいます。

だから、出てこられたその日1日に、前日までとはまるで違う世界になると思うんです。

というのは、修了式の話にもあったように、1999年のある日に急に墓の期間に入ったのだから、その逆もまたあるだろうからです。

だからこそ、私たちがあと一年で何を準備するのかという話が頻繁に出てくるのだと思います。

鼻血が出るほど実践しなさいとおっしゃいました。噂では「先生と3日走ると鼻血が出る」ということが言われています。

先生と共に走れているのか。その判断はなかなか難しいですが、判断指標の1つが「鼻血」ではなかろうかと思います。

私たちが神霊であれば、そばに主がいらっしゃって共に走っているのか、そうでないのかが見えたり実感できたりするだろうと思いますが、残念ながらそこまで神霊ではない人が多い。

では、どうしたら主と共に走っていることを実感するのか。それは「鼻血が出ているかを見ればわかる」のではないかと、私は思いました。

ほんの一瞬で運命が分かれる。その繰り返しで人生の位置が変わる

「繰り返すこと」についてと、「瞬間」についての御言葉でした。

先生の環境は本当に過酷だと感じましたね。一瞬でもトラブルが起これば、看守がすっ飛んできて懲罰を食らうことになります。

聖書には、「7を70倍するまで許しなさい」と書いてあります。

私の経験ですが、人って悪いところが癖になっていることが多いので、しぜん同じ罪を繰り返し許すことが多くなります。

するとそのうち「ああ、またか」と思うようになって「怒りを通り越して呆れる」段階に至ります。

それでも許し続けていると、一周回って楽しくなって来て「よっ大統領!いつものやつ頼むよ!」みたいな感じになって来ます。

そこから先は私は知りませんが、だんだん考えが深くなって、真に人を治めるとはどういうことかがわかる次元になるのだと思います。

繋がりについての御言葉

今朝は繋がりについてわかりやすく教えてくださいました。

「繋がっている」という考え方はとても東洋的ですよね。

ツボや気、陰陽といった考え方には物事の繋がり、流れについての深い洞察が隠されています。

だから、韓国や日本だけでなく、中国にも御言葉が入ればとても面白いことになると思うんです。

いろんな封印が解けると思いますよ。

しかし、今日も牧会者が摂理の歴史について話してくださった中にもあったんですが、中国はそういうの排除しますからね。

あーあ、中国。あーあ。

限界を超える力

限界を超えさせる力について話してくださいました。

出る杭を打つ文化がある日本だからこそ、限界を超えさせる力が必要だと思います。

社会では、たまに褒められても謙虚に「いえいえ、とんでもございません。これも◯◯さんのお力添えがあってこそです。」と言わなければならない律法があるので、私は最近では褒められるのもめんどくさいです。

さて、午後も褒めちぎるか。

実力ではなく主が共にされるか

昨日の証TVでもあったように、普通に考えれば落ち込むしかないところでいかに主を掴めるかが重要ですね。

昨日の証は「自分は太っているから」とか「後ろ向きで走ったら骨折した」とか、実力の話ではありませんでしたが、そここら神様と主が共にされた証していて、そうした積み重ねが、イ・チャンさんを神様が大きく使う条件になったのだと、私はそう感じました。